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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.218
2021年7月15日号
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◆今回の内容
○追放された神、流行神
・平将門の追放と復権
・神前結婚式のはじまりと明治の森
・流行神(はやりがみ)
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追放された神、流行神
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この数回、観念的な西洋主体の話が続いたので、口直しというわけでもないですが、今回は日本に舞台を戻して、社寺の話、とくに祭神や流行神について触れてみようと思います。
まず祭神ですが、ほとんどの人は由緒書きに記された祭神が昔から祀られているものと鵜呑みにしていますが、寺院の宗派が時々変わったりするように、これも入れ替えられることが珍しくありません。
この講座でも何度か取り上げているので、記憶にある方も多いかと思いますが、明治維新の際には、神社合祀や廃仏毀釈といった一連の宗教政策にともなって、文化破壊級ともいえるほどの祭神入れ替えが行われました。
とくに目立ったのは、イザナギ、イザナミ、アマテラスという皇統を中心とした一神教型の信仰体系への統一です。元々祀られていた土地神は片隅に追いやられ、伊勢から勧請されたこれらの皇統神が主祭神の座に据えられました。
私が地方で神社を調査する際は、古来、皇統神が祀られていることがはっきりしているところは別として、主祭神にイザナギ・イザナミ、アマテラスが据えられ、見慣れない神や皇統神とはかけ離れた性格の神が第二神もしくは第三神に祀られていたら、こちらのほうに注目します。それは、前述のような経緯があるからです。
中には、片隅に追いやられるだけではなく、追放され、由緒から抹消されてしまった神もありました。その代表的な例は、神田明神です。神田明神の場合は、主祭神が追放された後に、皇統神ではなく出雲の神が据えられました。本来は皇統神に置き換えたかったのかもしれませんが、元々の祭神が皇統を真っ向から否定する神であったため、対極にある皇統神を据えるのは、あからさますぎてはばかられたのかもしれません。
●平将門の追放と復権●
この7月2日から一ヶ月間、神田明神資料館では「平将門公展」が開かれています。神田明神の祭神は平将門ですから、この企画展には何の違和感もありません。数年前、NHKの番組で神田明神に指原莉乃さんとご一緒したとき、彼女がAKB48時代によくここにお参りに来たと話していましたが、やはり平将門がここに祀られていることを当たり前に思っていました。
しかし、この平将門こそ、長い間追放されていた神だったのです。
神田明神の前進である平将門を祀る社が築かれたのは1000年あまり前でした。ちょうど今の将門の首塚があるあたり、大手町の三井物産本社ビル周辺に置かれたとされています。この社は、江戸城を築いた太田道灌や北条氏綱といった江戸開幕以前の領主にも尊崇されました。
その後、家康が関ヶ原の合戦前に戦勝祈願を行い、幕府が開かれると、その御利益を尊んだ家康によって、鬼門を守る江戸総鎮守とされ、現在の場所に移されました。例祭である神田祭では、山車が江戸城内に入ることが許され、天下祭とも称されました。
ところが、明治維新によって、江戸から東京へと変わると、祭神の扱いが一変します。1874年、明治天皇親拝をきっかけに、将門は神田明神の本殿から外されてしまいます。代わりに、茨城県の大洗磯前神社から少彦名命が分祀されて主祭神とされました。拝殿へ向けて参道を辿っていくと、左手に大黒様と恵比寿様の像が出迎えますが、これはそれぞれオオナムチとスクナビコナに対応し、分祀の名残りを示しています。
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