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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.203
2020年12月3日号
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◆今回の内容
○虚ろ舟とは何か
・全国にある虚ろ舟伝承
・虚ろ舟の意味
・滝沢馬琴の時代
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虚ろ舟とは何か
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先週末は神奈川県藤沢市の朝日カルチャーセンター湘南教室での最後の講座でした。2010年に拙著『レイラインハンター』を上梓したのをきっかけに、親友で産業能率大学教授の松岡俊が紹介してくれたのがはじまりで、それからちょうど10年続きました。
最終の講座は、今年が日本書紀成立1300年であることから、「記紀神話と神社配置」「出雲と元出雲」という二本立てでした。元々は2月に開催予定だったのですが、その時は私の体調不良で流れ、その後、新型コロナの流行を受けた緊急事態宣言で流れ、三度目の正直でした。年内中に開講できなければ、1300年記念ではなくなってしまうところでした。
今回が最後というのは、このコロナ禍で、カルチャーセンターの運営が困難になってしまったためで、全国展開している朝日カルチャーセンターの大幅縮小にともなうものです。皮肉なもので、この最後の講座は、今まででいちばん受講生が多い会となりました。
今年は、予定していたトークサロンやツアーも全てキャンセルになってしまって寂しい限りですが、逼塞している間は、地道に調査研究は続けていたので、このコロナ禍が過ぎれば、より充実した内容で、諸々開催していけると思います。アナウンスするばかりで、なかなか実現しなかったオンライン講座も、年明けにはスタートしたいと思っています。
今回は、そんな逼塞期間中にいろいろ浮かび上がってきたテーマや課題の中から、「虚ろ舟」について考察してみたいと思います。
●全国にある虚ろ舟伝承●
虚ろ舟に関しては、第199回の「東国四社と甕・亀」でも触れました。滝沢馬琴の『兎園小説』の「虚ろ舟」の逸話を出典として、私の生まれ故郷の鉾田市の海岸がその虚ろ舟の舞台ではなかったかということ。また、そこから海岸線を南に50キロメートル下った、神栖市に伝わる「金色姫(蚕の草子)」の伝説も、やはり虚ろ舟をモチーフにした伝説ではないかというものです。
その後、虚ろ舟について調べていくと、この逸話は滝沢馬琴の『兎園小説』に出てくるものが初見ではなく、もっと昔から全国で語られている伝説であることがわかりました。
例えば、宮城県の気仙沼に伝わる「皆鶴姫伝説」も、虚ろ舟伝説のバリエーションの一つです。『義経記』に記された内容は、以下のようなものです。
源義経が鞍馬寺で鬼一方眼に師事して兵法の修行をしていたとき、方眼が持っていた中国伝来の兵法書「六韜(りくとう)」を見たいと懇願しましたが、方眼はこれをがんとして認めませんでした。そこで義経は、恋仲だった方眼の娘「皆鶴姫」に頼んで、これを盗み出し、奥州平泉へと出奔します。
兵法書を盗まれたことに気づいた方眼は激怒し、皆鶴姫を器舟(うつぼ舟)に乗せて九十九里浜から流してしまいます。舟は海流に乗って気仙沼の母体田海岸に流れ着き、そこで、浜辺に住む老夫婦に見つけられ、皆鶴姫は夫婦の元で暮らすようになります。
しばらくすると、姫は男の子を産みましたが、産後の日だちが悪く、そこで亡くなってしまいました。平泉にいた義経は皆鶴姫が苦しんでいる夢を見て、母体田の浜に駆けつけますが、皆鶴姫はすでに息を引き取った後でした。義経は、生まれた子を老夫婦に託し、皆鶴姫の奉じ仏を本尊とする観音寺を建立したとされます。
皆鶴姫の逸話は、福島県の会津にもあり、こちらの伝承は、会津まで義経を追いかけてきた皆鶴姫が、平氏の追手に追いつかれ、義経との間に生まれた帽子丸が追っ手によって池に投げ込まれてしまったのを追いかけて、共に溺死してしまったという話になっています。
どちらが真偽かはさておき、室町時代に成立したと考えられている『義経記』に「器舟(うつぼ舟)」の記述があるので、すでにこの頃は「うつぼ舟」、「虚ろ舟」は、一般的な名詞だったことがわかります。
また、皆鶴姫が流されたのは、九十九里浜とされていますが、犬吠埼を越えて、その北へと続く海岸線は鹿島灘で、まさに滝沢馬琴が「虚ろ舟」が流れ着いたと記してる場所です。九十九里浜から鹿島灘は一続きといってもいい海岸線なので、やはり、当時すでにこの地方には海からさまざまな物が流れ着き、また、ここから流されたものは北へ流れるという認識があったのでしょう。もっとも、虚ろ舟の伝説は、他の地方にもあるので、この海岸特有の伝承というわけでもなかったようです。
尾張藩の家臣だった朝日文左衛門が記した「鸚鵡龍中記」は、当時の武士の日常生活を知るための第一級の資料とされていますが、その元禄2年(1699)6月5日の項に、熱田の海に空穂船が漂着して、その中に身分の高い女性が乗っており、横に坊主の首があったという噂が流れているが、これは嘘である。他国にもそういう噂があって、昔から流布されている話だという記述があります。
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