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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.199
2020年10月1日号
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◆今回の内容
○東国四社と甕・亀
・東国四社
・虚ろ舟と甕
・甕と亀
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東国四社と甕・亀
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東国三社の一社である息栖神社の調査に取り掛かり、旧地を特定して、そこから古代の息栖神社の信仰が浮かび上がってきたことは、前回触れました。
その調査がさらに進み、東国三社成立以前の信仰として別なネットワーク(レイライン)が存在することが見えてきました。それは、私が長年抱いてきた一つの謎を解き明かす有力な手がかりとなりそうです。謎というのは、茨城県から福島県にかけての長く弧を描く海岸線「鹿島灘」に沿って、同じような信仰の痕跡が続いていくことでした。
●東国四社●
東国三社に関しては、拙著『レイランハンター』でも一章を割いて詳述していますので、詳しくはそちらに譲り、簡単に説明します。
東国三社は、茨城県と千葉県にまたがる鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社を指します。それぞれが、古事記に記された「国譲り神話」に登場する三柱の神を祀っています。
国譲り神話は、天照(アマテラス)の命を受けた武甕槌(タケミカヅチ)が出雲に降り立ち、国津神である大国主(オオクニヌシ)から地上の支配権を奪い取る話です。この武甕槌を祭神とするのが鹿島神宮で、その武甕槌が腰に帯びていた刀を経津主(フツヌシ)という神として祀ったのが香取神宮です。そして、武甕槌が天から乗ってきた船である天鳥船(アメノトリフネ)を祭神としたのが息栖神社です。
前回、息栖神社の旧地の正確な位置を探し当て、そこをプロットして三社を結ぶときれいな正三角形を描き出すということまで紹介しました。しかし、それは、私が東国三社に初めて注目した20年前にすでに推定していたことで、その確認作業ともいっていいものでした。
配置ももちろん興味深いのですが、さらに興味をそそられたのは、息栖神社の旧地は古墳群の中心ともいえる場所で、東国三社の成立より明らかに古い聖地であったこと。そして、そこで祀られていた神は天鳥船ではなく、もっと古い名前すらない神であったことでした。
今回は、この地方の歴史と神話を記した古い記録である『常陸国風土記』を元に、息栖神社からさらに南のほうへ調査を進めていきました。そこで見えてきたのは、常陸国風土記に記された蝦夷と思われる先住民の信仰が色濃く残っていることでした。
鹿島神宮は典型的な天孫系(伊勢系)の神社ですが、その奥宮は、太古の巨石信仰の記憶を要石信仰として残しています。また、この近くにある鬼塚がこの地方を支配していた蝦夷の首領の首を取って埋めたと伝えられるように、この周辺が元々は蝦夷の聖地であり、さらには縄文時代にまで遡る歴史を秘めていることがわかります。
息栖神社の旧地も同様の背景を持ち、さらに南に向かって、同じような蝦夷と縄文の痕跡が続いていくのです。
茨城県を海岸沿いにずっと南下して、利根川の河口に達すると、対岸は千葉県の銚子です。その銚子の町並みと向かい合うように、手子后神社(てごさきじんじゃ)があります。「常陸国風土記」の『香島郡』の条に記された「昔、童子女の松原というところに、俗にかみのをとこ、かみのをとめという年少童子女がいた」という話に由来する神社です。
話は、以下のように続きます。「童を那賀の寒田の郎子(いらつこ)、女を海上の安是(あぜ)の嬢子(をとめ)といった。容姿端麗で郷里に名声を響かせ、互いにそれを聞いて惹かれるようになった。月日を経て、カ歌(かがい)で二人が偶然出会い、歌を交わし、人目を避けるため松下に隠れて相語らった。やがて夜が明け、二人は人に見られることを恥じて、松の樹になった。郎子を奈美松、嬢子を古津松という」。手子后神社は、この古津松を女神として祀っているのです。
夫婦神のモチーフは、日本神話の伊弉諾(イザナギ)・伊弉冊(イザナミ)をはじめとして、山幸彦と豊玉姫、若狭彦と若狭姫、三島神と伊古奈比咩(イコナビメ・伊豆白浜神社の祭神)などが見られ、とくに海岸部の神社に多いのが特徴です。
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