滝沢馬琴といえば『南総里見八犬伝』で知られるが、馬琴は好事家としても有名で、全国の不思議な話を集めた『兎園小説』というアンソロジーを著している。その中に「虚舟(うつろぶね)」というエピソードがある。
それは、常陸国のはらやどり浜というところに、お釜を二つ重ね合わせたような舟が流れ着き、中から玉手箱のような飾り絵の美しい物を携えた金髪碧眼の女が現れたという話だ。はじめ、漁師たちは物珍しそうに女を取り囲んで観察していたが、彼女の話す言葉がまったく理解できず、不気味に思って、舟に押し込んで、再び沖へ流してしまったという。同様のことが何度かあり、その舟を虚舟と呼ぶようになった。
この時代は、勝手に海外と交流してはならず、海岸線に怪しいものが漂着した場合には、代官所への届け出が義務付けられていた。漁師たちは、その手続が面倒なのと、密貿易の疑いをかけられるのが嫌で、何事もなかったかのように舟を流してしまったと記されている。
澁澤龍彦はこの虚舟のエヒソードからインスピレーションを受けて、『うつろ舟』という短編小説を書いた。
この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。
ここには、今でも様々なものが漂着する。子供の頃は、外国語のラベルが貼られた珍しい容器を拾うのが楽しかったが、3.11の直後は、津波の被災地から流されてきた様々なものが漂着した。遺体も多数揚がり、一時は、市内の小中学校で、子どもたちを海岸で遊ばせないようにと指導していた。
かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。大竹海岸を見下ろす丘を中心に、「鹿島灘海浜公園」が整備され、その丘の上には恋人の鐘と鍵を吊るす金属網が設置されている。鐘も鍵を吊るすのも、どこかの観光地で流行ったものの二番煎じで、せっかく幻想的な逸話が伝わる場所に興ざめでしかない。
はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。
子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。
国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。
国道の通りは多いが、この谷間には騒音は届かず、ときおり池で跳ねる鯉の水音が反響するだけだ。近年は、神社ブームで、かなりな山奥の寂しい社でも参拝者をちらほら見かけるが、ここはほとんど知られていないせいか、雰囲気のある聖地なのに、まったく人を見かけない。
周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るいう考え方も風水の発想と同じだ。
はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。
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