スティーブ・ジョブスと膨大な時間を過ごし、ジョブスが心に秘めていた葛藤を老練な心理学者のように徹底的に汲み上げ、紡ぎ出した『スティーブ・ジョブス』。
ジョブスという存在を、単なるカリスマでなく、強いこだわりを持ってアートとテクノロジーを融合させて新しい時代を生み出したイノベーターとして描き出したこの前作に続いて、アイザックソンがテーマにしたのはレオナルド・ダ・ヴィンチだった。
レオナルドもまたルネサンスという大きく時代が変わる節目にあって、それを牽引した人物であり、ジョブスと同じように、アートとサイエンスをハイブリッドすることで、アートを一際高い表現手段に押し上げた。
ジョブスの登場以降に、時代がまったく新しい展開を見せたのと同様、レオナルドの登場以降、アートの概念そのものが変わるほどの変化をもたらした。「イノベーター」という意味では、ジョブスとレオナルドはまったく同列に位置する人物と言える。
アイザックソンの関心は、常に「イノベーション」にある。単にカリスマ的なイノベーターの評伝を書くのではなく、時代を変革したイノベーターの生い立ちから、その人生の軌跡を辿って、彼が何に惹かれ、どう社会と向き合い、自己のあり方をどう考えていたのかを緻密に再構成して、斬新なイノベーションを起こすきっかけとなった要因を探る。そこから、新たなイノベーションに繋げるためのヒントを表出させようとする。
そんなアイザックソンの姿勢を理解していたジョブスは、自らの仕事の最終的な仕上げは、アイザックソンが自分のことを書くことだと確信して、ジョブス自身が望まない事柄についても、アイザックソンには赤裸々に書いてもらって構わないと言い残す。
アイザックソンの『スティーブ・ジョブス』を一読して、すぐに思い浮かんだのは、コリン・ウィルソンのデビュー作『アウトサイダー』だった。カミュ、ゲーテ、ニーチェ、ヘミングウェイ、サルトル、ゴッホといった、破天荒な生き方と考え方で時代に強烈なインパクトを与えた作家・アーティストを題材に、彼らが既成秩序に準じるインサイダーではいられないアウトサイダーであったからこそ、常識を乗り越えた表現を可能にしたことを証明してみせた。そして、アウトサイダーであることの宿命ともいえる孤独と苦悩に、彼らがどう向き合い、また、時代は彼らをどのように処遇したのかを丹念に描き出した。
コリン・ウィルソンの場合は、彼自身が強烈な個性をもったアウトサイダーであり、そんな自分の存在意味を必死で探した結果が『アウトサイダー』という作品でもあったわけだが、一方、アイザックソンは名うてのジャーナリストであり、ウィルソンのように自分が対象とする人物にどっぷりと感情移入するような書き方はせず、対象の心に肉薄しながらも、淡々と、人物とその人物をフィルターにして時代そのものを浮き彫りにしていく。
レオナルドに関して、アイザックソンは7000点にものぼる自筆メモを読み込みこんだ。そして、何にこだわりを持ち、どんな心理的変遷を辿っていったのかを徹底的に分析した。
主観的な表現が当たり前だった時代に、レオナルドは科学の客観的な視点にこだわり、偏執的ともいえる観察者として様々なものを見つめ、それを数学的に解析して、アートに取り入れていく。そもそもルネサンスは、長らく失われていた古代ギリシアや古代ローマの文化を取り戻そうとする運動で、そこにはすでに古代において確立されていた高度な数学や科学的思考が含まれていたわけだが、レオナルドは単にそれを自分の表現に取り入れたのではなく、数学や科学的思考でもって、まず自分の身の回りの事象を観察し、分析して、膨大な手稿に残し、それを発想の原点として作品を生み出していった。
ルネサンスの中心地であるフィレンツェから、ミラノ、ローマ、そして晩年はフランス王の庇護を得てフランスで生涯を終えるまで、その場所ごとの権力者に重用されながらも、マイペースに生きていく。イタリアの都市国家が抱える複雑な問題やフランスとの関わりなど、世界史の教科書からでは複雑過ぎて掴みきれない当時の情勢が、レオナルドの生き方をアイザックソンに誘導されながら追っていくと、社会情勢だけでなく、権力者たちの心の機微までがはっきり見えてくる。マキャベリがレオナルドと同時代人であったことはもちろん知っていたけれど、二人の間に親密な交流があって、たがいに助け合っていたエピソードには驚いた。そんなことからも、ルネサンス期の時代精神とそれが後に及ぼした影響が断然リアルに感じられた。
レオナルドの代表作である「モナリザ」は、謎の微笑や背景の独特な構図が様々に取り沙汰される。また「最後の晩餐」の人物描写も意味ありげで、しばしばオカルトや陰謀論的なメッセージが込められているなどと言われたりする。
ダン・ブラウンは聖杯伝説とレオナルドの作品を結びつけて、軽妙なエンタテイメント『ダ・ヴィンチ・コード』を発表して話題になったが、これは完全なフィクションだ。
アイザックソンは、レオナルドの膨大なメモを読み込み、分析して、彼の思考を丹念に辿ることで、長年に渡って謎とされてきたレオナルドの表現の意味をオカルトや陰謀論の色彩を払拭して明らかにする。
レオナルドが目指していたのは、ミクロコスモスである人体とマクロコスモスである自然(宇宙)との照応(コレスポンデンス)をいかに表現するかであり、一見すると、それは中世の魔術的思考の延長のように感じられる。でも、レオナルドは一貫して客観的なエビデンスを求めていく。そこから、人体と自然の造形が溶け合うだけでなく、人間の意思や感情が自然と感応しあう様を絵画として定着させることに成功する。そのために、何百にもおよぶ人体を解剖してその構造の詳細をスケッチし、様々な人たちの表情を観察して、感情がどのように筋肉の動きとして現れるかを書き留めた。また、地質や植生にも注目し、その造形の基本にフラクタルがあることにもすでに気づいていた。
そうした観点からレオナルドの作品を見直すと、謎のベールが完全に消えて、レオナルドの意図が極めて具体的で、目眩がするほど豊穣な意味が浮かび上がってくる。そして、あらためてその作品の偉大さと、レオナルドという人間が到達した境地に驚愕させられる。それはまた、ルネサンスという時代の価値をあらためて見直すことにも繋がっていく。
長らく文化が停滞した中世から脱皮するために、ルネサンスはそれより1800年前の古代ギリシアに光を当て、その文化を範として、さらに高い次元の世界を生み出した。現代は、飛躍的に科学技術が進んで、過去にはありえなかった様々なテクノロジーに取り囲まれているけれど、文化や人間の意識は、逆に著しく退化しているように見える。そこから脱皮するために必要なのは、レオナルドに代表されるようなルネサンス的意識を持ったイノベーターなのだ。
レオナルドは、何十年にも渡る遍歴において、モナリザと他数点の作品をずっと持ち歩き、筆を入れ続けた。普遍というものに永遠に到達できないことはあたりまえのように自覚しながら、それでも普遍を目指し続けること。そのことによって、レオナルドは着実に進化していった。現代という刹那的な時代にあって、もっとも必要なのはレオナルドのそんな姿勢ではないかと思う。
"Perche la minestra si fredda = スープが冷めるから"。
レオナルド最大の謎は、手稿の最後に記したこの言葉が意味する、彼の境地に尽きる。
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