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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.167
2019年6月6日号
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◆今回の内容
○電磁波感受性と進化について
・ドローン操縦不能の聖地
・デンキウナギと進化
◯お知らせ
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電磁波感受性と進化について
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前回配信した『鬼の視点から見た日本』には、たくさんの反響をいただきました。
近年、神社参りや御朱印集めがブームになり、古事記、日本書紀をはじめとした日本神話への関心も高まっています。しかし、そのブームは、ただご利益を求めるものであったり、スピリチュアルな意味を無理やり見出そうとするような傾向が強いものであったり、あるいは神話と史実の区別をつけないまま神話に登場する「神」が実在したという観点からスタートするようなものが多く、とても歪なものに感じます。
そんな神社ブームへの違和感もあって、あえて、「正史」である記紀神話で「鬼」とされた古代の権力闘争で敗れ去った者、最後まで大和王権に抵抗したまつろわぬ民たちの視点から、神話と聖地を見直したものでした。
スサノオが詠んだ日本最初の和歌と伝えられる「八雲立つ……」は、正史ではスサノオとクシイナダヒメの婚礼を寿ぐものとされていますが、どう読んでもそのようには解釈できません。漠然と読んだだけではまったく意味をなさない歌です。ところが、八雲の「雲」を「蜘蛛」に置き換えると、「土蜘蛛」とされたまつろわぬ民たちを怨嗟する内容がはっきりと浮かび上がってきます。
物事には裏と表がある。それはどんなことにも当てはまります。神社という聖地は、太古の自然信仰から始まり、様々な民族や時の権力と関わりを持って、それぞれに利用されてきました。そうした歴史を紐解いていくと、表立った「ご利益」ばかりではなく、そこに籠もる怨嗟や呪いとともに、その聖地が持つ性格がはっきりと見えてきます。
その上でお参りをすれば、そこに祀られた神だけでなく、その神の陰に本来の産土が息づいていることがわかります。聖地を訪ねることの意味は、その土地の記憶=歴史が凝縮された場所である聖地において、そこに宿る本来の地霊=ゲニウス・ロキと相見えることにあると思います。それは、日本というこの国の成り立ちを見据えることでもあります。
最近、私は御霊信仰にとくにこだわって、その聖地を訪ねていますが、この世と時の権力に強烈な怨嗟を抱いたまま亡くなり、怨霊として恐れられた御霊たちと向き合うと、彼らの無念ととともに、彼らを死地へと追いやった者たちの悔恨も見えてきます。それは、権力闘争の虚しさとともに、太古からこの列島で暮らしてきた人間の心の機微をも実感させてくれます。それも、いうなれば「鬼」の視点から日本を見つめ直すということです。
前回取り上げたような例は、まだまだたくさんありますので、それも折りに触れて取り上げていきたいと思います。
今回は、歴史的なテーマから少し離れて、聖地にまつわる科学の話をしたいと思います。
●ドローン操縦不能の聖地
以前、福島県いわき市の聖地調査の話を掲載しましたが、このプロジェクトも5年目を迎え、新たに聖地にまつわる逸話を動画コンテンツとして紹介するプログラムが加わります。そのロケで訪れたいわきの聖山・水石山でのことです。
この山の頂上には、円錐形の巨岩「水石」があり、それが山名の由来となっています。水石のてっぺんには窪みがあって、昔から、ここに水が溜まっていれば適度に雨が降り、この水が枯れると日照りになると言い伝えられてきました。
水石山は彼方に望む太平洋から龍燈と呼ばれる光が上ってきたとされる場所でもあります。この山の尾根筋直下には閼伽井嶽というピークがあり、そこに閼伽井嶽薬師があります。空気の澄んだ晩に、海に無数の蛍火のようなものが現れ、それが川を遡ってきて、閼伽井嶽薬師の境内にある龍燈杉に集まるというのです。江戸時代から明治初期にかけては、この閼伽井嶽薬師の龍燈は全国に知れ渡っていて、龍燈見物を目当てにした参拝客が大勢訪れたと伝えられています。
その龍燈をテーマにした作品のクライマックスシーンに、水石の傍らから飛び上がったドローンが、閼伽井嶽薬師とその先の海を一望する映像を撮ろうとしたのです。
それぞれに望遠と広角カメラを搭載した二機のドローンのセッティングを終えて、コントローラーのスイッチを入れると、突然、アラートが鳴り響きました。電波障害のため操縦不能であるというアラートでした。
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