□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.151
2018年10月4日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
◯天海と江戸・東京の風水
・天海僧正という人物
・久能山と日光
・江戸の結界
◯お知らせ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
天海と江戸・東京の風水
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
この週末から、とあるTV番組の取材で、江戸・東京の風水的仕掛けを巡る予定にしています。その仕掛け人は、「黒衣の宰相」と呼ばれた天台僧、南光坊天海です。
以前、この講座の第55回でも、江戸の風水とレイラインとの関係について取り上げましたが、今回は、そのときあまり触れられなかったこの謎の僧について掘り下げてみたいと思います。江戸という近世の新しい都市の創建に当たって、天海がいかに大きな役割を担ったか、そして、そこに秘められた奥深い意図が見えてきます。
●天海僧正という人物
天海という人物は、とかく謎めいた言い伝えに包まれています。例えば、豊臣に滅ぼされた明智光秀が生き延び、天海と名を変えて家康のブレーンとなったのではないかとか、足利11代将軍義澄の落胤であるとか、あるいは武田信玄であるといった説まであります。
それは、徳川家康に始まり、秀忠、家光まで三代にわたって仕え、非常な長生きをしたことや、身長が6尺(180cm)もある当時としては巨魁であったことに加えて、幕府に参画したのは最後発でありながら、幕府内で非常に大きな影響力を持っていたことから、その人物像が脚色され、庶民の想像力が膨らんだ結果でしょう。西洋でいえば、何世紀も生きて、その時代時代の王室に深く関わったとされる錬金術師のカリオストロ伯爵や、ロシア帝室を操ったラスプーチンなどとイメージが重なります。
実際の天海は、今では文献資料の裏付けなどから、その素性がはっきりしています。まずは、そんな天海という人物について、見ていきましょう。
天文5年(1536)、天海は、会津の武家の名門である蘆名家に生まれました。幼名は兵太郎(ひょうたろう)。武家の家に生まれたものの跡継ぎではなかったらしく、天文15年(1546)、11歳のときに会津の龍興寺に入り、随風と名乗ります。龍興寺は嘉祥元年(848)に慈覚大師円仁が創建した古刹で、天海はここから天台宗の僧侶としてのキャリアを積み上げていくことになります。
14歳のときに下野国宇都宮の粉河寺(こがわでら。現在の宝蔵寺)に移り、関東天台宗のトップである皇舜権僧正の元で修行します。さらに18歳のときに本山である比叡山に入り、神蔵寺の僧侶実全に師事します。ところが、23歳の時に、母親が病死し、その悲しみのためなのか山を下りて、下野国の足利学校に入門。ここに4年間籍を置いて、仏教だけでなく、広く儒教や歴史、そして実学を修めました。このときの経験が、天海に広い視野をもたらし、仏教だけでなく陰陽道や実践的な都市工学を駆使した天海ならではの思想の基礎が形作られたのでしょう。このとき、武田信玄に招かれて天台論議の講師を務めたという記録もありますから、すでに天海の名前はかなり知られていたものと思われます。また、信玄の講師を務めたということですから、先に挙げた天海信玄説はありえないことがわかります。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
コメント