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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.144
2018年6月21日号
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◆今回の内容
◯縄文と現代の聖地
・縄文の聖地の特徴
・神社に残る縄文の記憶
・東国三社と奥東国三社を例として
◯お知らせ
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縄文と現代の聖地
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この18日に開催したトークサロンでは、関東を代表する神社である鹿島神宮と香取神宮、さらに息栖神社を合わせた「東国三社」の構造と、それが意味する歴史の深層についてお話しました。さらに、今度の日曜日(24日)には、実地に東国三社を巡り、その独特な構造と向き合うことで、東国三社の創建の意図と太古からの聖地の息吹を感じ取っていただこうと思っています。
そこで、今回はこの講座でも、東国三社をモデルケースとして、縄文の息吹きを色濃く残す聖地について考えてみたいと思います。
神社に代表されるような聖地は、そのほとんどが、由緒に記された神を祀るだけの単純な場所ではありません。そこは、自然信仰に根ざした太古からの祭祀場であり、その土地独特のゲニウス・ロキ(地霊)が密かに息づいています。とくに、かつて「東国」と呼ばれた北関東から東北にかけては、縄文から蝦夷へと受け継がれた自然信仰の聖地に、大和朝廷の神社が乗る形になっているものが多く、神社の祭神である日本神話の神と、よりプリミティヴな太古の神が併存しています。東国三社はその代表的な聖地なのです。
東国三社の構造とそこに秘められた意図については、後半で詳しく解説しますが、ここが古代の大和朝廷の東国進出のための重要な拠点であったということと、今ある社殿に隣接したり下になった場所が縄文時代を起源とする太陽信仰と巨石信仰の聖地であったということがポイントとなります。
今日はちょうど夏至ですが、鹿島神宮では、今日の曙光は、北東の明石浜にある東一の鳥居の先から登り、鹿島神宮の本殿へと導かれていきます。それは、鹿島神宮の祭神である武甕槌(たけみかづち)が明石浜に上陸したという神話の場面を再現するものですが、じつは、境内にある縄文の巨石信仰のシンボルである「要石」に、夏至の朝日が射しこむ光景が下敷きになっています。キリスト教が古代の冬至祭をクリスマスとして剽窃したように、太古の太陽信仰の夏至祭(豊穣祭)を日本神話の場面に置き換えているわけです。
●縄文の聖地の特徴●
まず、今の神社に縄文の痕跡を探す前に、縄文の聖地に見られる特徴を見てみましょう。
長野県原村にある阿久遺跡(あきゅういせき)は、縄文時代前期から末期にかけて非常に長く営まれた祭祀場で、おびただしい数の自然礫を直径100メートルあまりの環状に並べた中に、ドルメン(石柱)が置かれています。現在は、倒れていた石柱を起こして平らなところに置いたために、もとの場所から少しズレていますが、本来は、四枚ずつが向き合って立ち、石廊のようになっていました。
その石廊の先には、蓼科山がぴったりと収まり、蓼科山の山頂に登った夏至の曙光が石廊に真っ直ぐ射し込んできました。1万年あまり前の縄文人は、すでに精密な太陽観測を行い、夏至が太陽の力がピークとなることを理解していたわけです。もしかすると、列石の周囲に敷き詰められた自然礫は人が辿れるように石畳のようになっていて、夏至には、その石畳の上で、豊穣を祈願しながら縄文人たちが輪を成して踊っていたのかもしれません。
同じ縄文前期の遺跡である長野県大町市にある和原(わっぱら)遺跡は、ぴったり南北に配された大小二つの環状列石があり、それぞれが周囲のランドマークに符合する形で、東西南北と二至二分の太陽の出没方向を指し示すように配されています。
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