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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.131
2017年12月7日号
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◆今回の内容
◯道教と神道・密教
・道教の流入
・星供・星祭り
◯お知らせ
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道教と神道・密教
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2017年も師走に入り、もう一ヶ月を切ってしまいましたね。来年は今上天皇が退位し、新たな天皇のもとで新たな元号がスタートすることになります。思い返せば、昭和から平成に変わった時、私の父の名である「平作」と私の名である「一成」が一体になった年号が発表されて、個人的な奇瑞を感じたものでしたが、それから早30年も経つのですね。今度は、いったいどんな元号になるのでしょうか。
明治以降、元号は一代の天皇に一つの元号が用いられ、1979年に成立した元号法によって「元号は皇位の継承があった場合に限り改める事」という一世一元の制が明文化されましたが、江戸時代以前は、一代の天皇が在位中に改元が行われることがしばしばありました。
そうした改元は、次のような三つのケースがありました。一つは、世に何か吉事が起こったときにそれを祝って行われる改元で、これは祥瑞改元と呼ばれました。二つ目は、逆に凶事が起こったためにその影響を断ち切るために行われたもので、これは災異改元と呼ばれました。そして、もう一つは三革を区切りと見なして行われたもので、革年改元と呼ばれました。三革とは、革令(甲子の年)・革運(戊辰の年)・革命(辛酉の年)のことで、この三革の年に異変が起こりやすいとされ、機先を制して異変を防ぐために行われたのが革年改元でした。
こうした改元は、道教とそれから発展した陰陽道をバックボーンとして、名称や改元のタイミング、儀礼などが厳格に規定されていたました。それは今でも変わりがありません。
中国では、紀元前140年に漢の武帝が制定した「建元」が最初で、1911年の清の「宣統」まで2051年に渡って元号が用いられました。日本で元号が用いられたのは孝徳天皇時代の「大化」が最初でした。「大化」は中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)が蘇我氏を倒した乙巳の変の直後に制定されたものです。大化元年は645年ですから、日本では今日まで1372年間、元号が用いられていることになります。
元号の意味は道教思想をバックボーンにしていると書きましたが、日本に本格的に道教が入ってきたのは、飛鳥時代でした。飛鳥時代末期に造営された高松塚古墳では、玄室の天井いっぱいに渡来人が描いた星宿配置図が残っていますが、これなどは、当時、道教思想が朝廷でも深く浸透していたことを証明しています。
天智天皇から彼の弟である天武天皇の時代にも、朝廷は盛んに道教・陰陽道を取り入れ、それが朝廷祭儀の根幹を形作っていきました。とくに天武天皇は『日本書紀』に「天文遁甲をよくした」と記され、道教の方術に秀でていたことが伝えられています。壬申の乱の際、伊賀名張の横河に差し掛かったときに、空に広さ十余丈の黒雲が広がったのを怪しみ、自ら占って、「天下二つに分かれむ祥なり。然れども、われ遂に天下を得ん」と、占術の結果を兵たちに宣言し、ほどなく天武軍は勝利をおさめて、天下を制することになりました。
今回は、来年の新元号スタートに因んで、日本の歴史の中で道教が果たした役割を掘り下げ、皇室祭儀とともに民間信仰に色濃く残る道教の影響を見ていきたいと思います。
【道教の流入】
記紀神話は国生みから始まり、日本の国土が形作られていく経過と、その中で生み出されていった神々を記しています。さらに、国譲りから天孫降臨といった国津神との交渉がが綴られ、地方ごとのエピソードが散りばめられる中で様々な神が登場します。まさに八百万の神々です。しかし、その神々を見ると、ある際立った傾向があることがわかります。それは日本神話の神々は、ほとんどが地上の神で、いわゆる天空神が見られないということです。
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