徳川幕府の安泰と繁栄のために、江戸の街には様々な風水的な仕掛けが施されたことは有名だ。
京の都の鬼門を塞ぐ比叡山延暦寺と琵琶湖(竹生島)を模して、上野に東叡山寛永寺と不忍池(弁天島)を配したり、東国で「新王」を名乗って朝廷に対抗しようとした平将門を守護神として、江戸城を取り巻くように首や胴や手足などのパーツを祀った社祠を北斗七星型に配置したりした。
明治になると、今度は、朝廷が同様の仕掛けを施すようになる。荒俣宏は『帝都物語』で、平将門を復活させてこの世を混乱させる魔王の陰謀と陰陽師との戦いを描いたが、それは、江戸幕府が築いた結界を、明治政府が破壊したり封じたりすることを考慮した都市計画を行った事実をバックボーンとしている。
拙著『レイラインハンター』では、その代表的な例として、平安時代の朝廷の東国支配のための前線基地であった鹿島神宮と東国一の聖山である富士山とを結ぶレイライン上に、様々な物件が配置されていることを紹介した。
最近、とあるテレビ番組の企画で、東京の風水的仕掛けについてあらためて検証していたのだが、そこで、面白い事例を見つけたので、今回、それを紹介してみたい。
これは靖国神社と明治神宮にまつわるものだ。
まず、明治神宮だが、明治神宮の本殿はほぼ南を向き、これは大部分の神社と同じ北極星を背負う形となっている。明治天皇を祭神とするから、玉座が南面していたことをそのまま踏襲したともいえる。拝殿から先に伸びる参道は、そのまま原宿門までは真っ直ぐに伸びるが、その先の表参道は30度ほど北方向に折れている。この表参道の方向は、冬至の日の出と一致する。これは、生命の再生を象徴する冬至の太陽の光を導くことで、天皇家(と皇国としての日本)の永続と繁栄を願ったものと素直に解釈できる。これは、方位や聖地の研究者にはけっこう知られていた。
今回気づいたのは、その明治神宮と靖国神社の位置関係における意味だ。
明治神宮の本殿から見ると、靖国神社はぴったり夏至の日の出の方向に一致する。逆に靖国神社から見れば明治神宮は冬至の入日の方向に当たる。こうした夏至と冬至の二至を結ぶラインは、表参道の向きと同様に、そこに配されたモノの永遠性やその子孫の繁栄を祈る意味合いを持つ。
歴史的な背景もまたその意図をはっきりと物語っている。靖国神社は幕末から明治維新に貢献した志士に始まり、その後の太平洋戦争に至るまでの間に国事に殉じた軍人や軍属を祀った神社だが、その前身である東京招魂社の創建を大村益次郎が献策し、明治天皇が勅許したことにはじまる。つまり、明治天皇を祭神として祀った明治神宮は、明治国家の成立に貢献した明治天皇の臣下と明治天皇の魂を結ぶ位置に設けられたということだ。
さらに、靖国神社の本殿から伸びる参道をそのままずっと伸ばしていくと、鹿島神宮・香取神宮・息栖神社という通称「東国三社」の方向にぴったり当てはまる。この三つの神社は、それぞれ武甕槌(タケミカヅチ)、経津主(フツヌシ)、天鳥船(アメノトリフネ)という記紀神話に登場する神を祀っている。この三神は、天照大神(アマテラスオオミカミ)の命を受けて、国津神である出雲の神に国譲りを迫った神であり、武甕槌は天孫でいちばんの武神、経津主はその刀、天鳥船は武甕槌を乗せた船とされる。
靖国神社の春の例祭は4月22日で、東北東を向く本殿と参道は、まさにその日の日の出を指している。これは、祀られた軍人や軍属たちを、天孫の武神が鎮撫していることを意味するのだろう。
こうした陰陽道的、類感魔術的な仕掛けが、東京にはまだまだたくさんありそうだ。
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