昨日は、アーティスト今野絢さんの個展に伺った。
今野さんは、縄文をモチーフにアブストラクト作品をたくさん描いている。長くコマーシャルの世界でアートディレクターとして活躍され、引退してからは絵描き三昧で、長くイメージを温めてきた縄文、とくに縄文という時代が持つ響きをテーマに、筆を奮っている。
ちょうど一年前、初の個展に招待していただき、そのときは、僭越ながら、聖地写真家の久保田光一氏と宝珠悉皆師の那須勲氏とともに、今野作品が奏でる縄文の響きに包まれて、古代の人たちの心性やそれが生み出した聖性についてディスカッションした。今年は、ふらりと訪ね。ゆっくりと一つ一つの作品に向き合わせていただいた。
昨年の個展の作品は、どこか「縄文的情念」といったようなものが結晶化した、部分的な密度を感じさせるところがあり、また全体的にソリッドな印象を受けた。それは、土偶と同じように大地に根ざした重厚感があって、縄文という1万5千年も続いた(新たな発見によってその歴史は3万年に変わるかもしれないが)時代の厚みを物語っているようだった。
今回の個展は、会場に入って、いきなり華やかで軽やかな雰囲気に包まれた。ポップな色彩が躍動している作品が多く、描かれた縄文の響きを象徴するオブジェも、ときに勇ましく、ときに軽やかに、そして柔軟に動いていて、そのリズムが染み込んでくる。重厚な色彩の作品でも、やはりオブジェに動きがあって、それは大地に響いていく振動のようなリズムを奏でている。
アブストラクトから飛び出してきた立体作品も、やっぱり柔軟な動きを見せている。幾つかの立体作品は、天辺から双葉の芽が伸びていて、今、会場を包んでいる躍動は、これからもっともっと広がっていくんだなと感じさせる。
昨年の展示会では、写真家の久保田氏が作品を穴が開くほど凝視して、色彩の微妙な重なり合いや筆運びの勢いに注目して、それがどんな心境で描かれたものなのか、今野さんを質問攻めにして、それに今野さんは嬉しそうに答えていて、それをそばで見ているのがとても楽しかった。
久保田氏は、聖地を取り巻く雰囲気のディテールをモノクロームの世界に写し撮って、そこに新しい、より奥行きの深い聖地を描き出す写真家だが、彼の目には、今野さんの作品が普段対峙している聖地と同じように見えているのだろう。そんな観点で、ぼくも縄文の聖地として今野作品を見直してみると、そこに様々な風景と縄文の風を感じることができた。
今回は、そんな二人のやり取りを一緒にいて見ることはできなかったが、あとでフェイスブックに投稿された久保田氏のタイムラインで、彼が感動して書き綴った文章を読んで、同じように感じたんだなと、なんだかとても嬉しくなった。
普段、ぼくはどちらかといえばロジカルな視点で物事を眺めている。だけど、聖地を調査するときには、ロジカルに眺めるだけではもちろんダメで、その場が醸し出す雰囲気=ゲニウス・ロキを実体的に感じ、さらにはその場に刻まれた古の人たちの感性にシンクロしないと見えてこないものがある。それは、アーティスティックな感覚で、これを研ぎ澄ますのは、平凡なアート感覚しかないぼくにはなかなか難しい部分なのだ。
その点、今野さんや久保田氏、それに神話をモチーフにアーティスティックなジュエリーを創作する那須氏といったかけがえのない先輩と友人が身近にいることがとてもありがたく、励みになっている。
頑張って自分の「聖なる空間」を作って、そこに、三人の作品を起きたいな。頑張らねば!!
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