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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.124
2017年8月17日号
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◆今回の内容
◯海人族の足跡と聖地
・安曇氏と海部氏
・応神天皇の尻尾
・倭姫巡幸と海人族
◯お知らせ
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海人族の足跡と聖地
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10代の終わり頃から20代にかけて、北アルプスによく出かけていました。
上高地から穂高や槍ヶ岳方面へ向かう途中に、明神池という前穂高岳の絶壁を背景にした森に佇む神秘的な池があります。ここまで来ると河童橋周辺の観光客の喧騒から離れて、深山に分け入った実感が迫ってきます。
重いザックを降ろして、池の畔に腰掛けて冷たい湧き水で喉を潤し、景色を見渡すと、深山に似つかわしくない舟が目につきます。川の渡し舟に使われるような小さな和船ほどの大きさの舟なのですが、舳先と艫が反り返っていて、その舳先には木彫りの龍が据え付けられています。舟も龍も朱色をベースに、色とりどりの装飾が施されていて、嫌でも深い緑の中で目立つのです。
どうしてこんな山奥の池に不思議な舟が浮かべられているのか疑問に思い山小屋の主人に聞くと、これは穂高岳頂上に祀られている海の神を載せる神舟だと答えが返ってきました。穂高岳といえば北アルプスの中でも急峻な山で、3000メートル峰です。そこになぜ海の神が祀られているのか、ますますわからなくなりました。
その海の神が、信州の北アルプス山麓に住んだ安曇(あづみ)氏が信仰していたものだと知ったのは、だいぶ後になってからでした。
【安曇=アマツミ】
安曇は海人津見(あまつみ)が転訛したもので、津見(つみ)は「住み」を意味し、安曇=海に住む人となります。『日本書紀』には応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」とあり、『古事記』には「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されています。また、『新撰姓氏録』には「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と見えます。
安曇氏は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)が発祥とされる古代日本の有力氏族で、その本来のルーツは朝鮮半島や東シナ海沿岸部という説もあります。最初に本拠としたのは、福岡の志賀島一帯で、そこから全国に移住していきました。
この移住は、安曇氏がそっくり移動する「民族移動」ともいえる大規模なものでしたが、その原因として、磐井の乱や白村江の戦いの影響とする説があります。磐井の乱は、継体22年(528)に朝鮮半島南部への出兵を巡って大和朝廷軍と九州豪族の間に起こった戦いで、九州豪族軍は物部麁鹿火率いる大和朝廷軍に鎮圧されます。白村江の戦いは天智2年(663)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で勃発したもので、倭国と滅亡した百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いで、このとき、安曇氏を統率していた安曇比羅夫が戦死しました。穂高神社の若宮には安曇比羅夫が祀られていて、毎年9月27日に行われる例大祭(御船祭)は、比羅夫の命日にその魂を弔うものだという説もあります。
安曇氏が移住したところは、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名が残っています。それは、九州から瀬戸内海、近畿、さらに三河国の渥美郡(渥美半島)や飽海川(あくみがわ、豊川の古名)、伊豆半島の熱海、出羽国北部(山形県)の飽海郡(あくみぐん)と広く分布しています。また、「志賀」や「滋賀」も志賀島由来の地名で、移住した安曇氏が残したものだとする説もあります。
穂高岳の麓の上高地から、その東の松本周辺、松本の北の大町周辺の広い範囲は「安曇野」と呼ばれますが(今はその中心に「安曇野市」があります)、これは地方に移住した安曇氏の一大拠点がこの地方だったことの名残りです。
志賀島周辺から全国に四散し、さらに安曇野という内陸深くまで進んで、隠れ住むようになったのは、大和朝廷との対立が根深かったことを表しているのかもしれません。
安曇野に隣接する諏訪も古代には独特の信仰と文化を持つ独立王国的な場所でしたが、周囲を高い山岳に囲まれたこの地方は、外側から容易に攻め込むことができず、半ば治外法権的な土地とされていたのかもしれません。
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