今年も惜しい人が何人も亡くなってしまったが、個人的には2月のウンベルト・エーコの死がいちばんショックだった。遺作となった『ブラハの墓地』が日本で発売となった直後の訃報だった。
遅まきながら『プラハの墓地』を読み終えて、今いちばん世界にとって必要な人だったのにと、あらためて残念でならない。
もともと記号論の学者で、そのころからエーコの作品(論文)には親しんできて、とくに『薔薇の名前』以降、『フーコーの振り子』や『前日島』など、エーコならではの歴史認識と作品のトーンが好きで、いつも新たな作品を心待ちにしている作家だった。
『プラハの墓地』は、『フーコーの振り子』に続く陰謀論をモチーフにした小説で、『フーコーの振り子』がテンプル騎士団にまつわる中世の陰謀史を巡る現代の物語だったのに対して、陰謀史観としては新しいユダヤ陰謀論をそれが生み出された時代に舞台を置いて進んでいく。
ユダヤ陰謀論といえば、今でもフリーメーソンをシオニズムによる世界統一政府の樹立を目論む秘密結社として描いたり、さらに中世の秘密結社と結びついた「イルミナティ」といった組織があると信じられたりしていて、とても根深い問題だ。
そうしたユダヤ陰謀論の元となったのが、1905年にロシアで発表された『シオン賢者の議定書』と呼ばれる捏造文書だ。これはユダヤ人の長老たちがあるとき会議を開いて、いかにして世界をユダヤ人支配のもとに置くかを話し合い、フリーメーソンの活動基準とするべく世界中のフリーメーソンロッジ(支部)に密かに配布されたというもので、世に登場してすぐに捏造であることが証明された。しかし、その後、まるでしつこいゾンビのように何度も何度も登場してきて、いまだにユダヤ・フリーメーソン陰謀論のバイブルのように扱われてしまっている。ナチスによるホロコーストも、プロパガンダにこの文書が利用されたことから、「史上最悪の偽書」と呼ばれながらも、その「信者」はまだ世界中にいる。
こうしたプロパガンダ文書は、陰謀論を信じやすい人間の性を巧みに突いていて感情に訴えるために、ロジックで矛盾を指摘しても洗脳を解くことが難しい。そこで、エーコは、ロジックで説得しようとするのではなく、こうした陰謀論とプロパガンダ文書が生み出されるプロセスと、その背景を歴史小説とピカレスク小説のミックスとして描き出す。
19世紀後半から20世紀初頭にかけての市民革命からその反動の帝国主義、さらに未熟な社会主義革命であったパリ・コンミューンという時代、それがこの小説の舞台になっている。この時代の底流には、フランスとドイツの対立にロシアが加わり、さらにイエズス会とユダヤ教勢力との対立を背景として、様々な思惑と陰謀が錯綜する。その中で、ひとつの決定打として生み出されたのが『シオン賢者の議定書』で、これによって、ヨーロッパの市民感情が一気に反ユダヤ色を強めていく。それから100年あまりも続く、このプロパガンダ文書の呪いを最終的に解こうと試みたのが『プラハの墓地』だ。
『シオン賢者の議定書』は、ヨーロッパ世界に影響を与えただけでなく、日本にも重大な影響をもたらした。戦前にこれを日本語に翻訳して紹介したのは酒井勝軍(さかいかつとき)というオカルティストだった。彼はアメリカに留学して牧師となり、その後、ピラミッドの研究などを行う。そして、日本の特務機関に雇われて、ナチスがアーリア人優性論を宣伝したように、日本人優性論を宣伝する任務を負う。
酒井勝軍が本格的に活動をはじめたちょうどその頃、『竹内文書』という捏造文書が登場して世間を騒がせていた。皇祖皇大神宮という新興宗教を主催する竹内巨麿がたまたま見つけたとされたもので、そこには、日本が世界でもっとも古い歴史を持つ国で、全ての叡智の源泉は日本にあったと記されていた。
酒井勝軍は、渡りに船とこの文書を利用して、その中に記されている場所を特定し、そこが古代ピラミッドであるとかエデンの園であるとかと宣伝した。
さらに酒井は、『シオン賢者の議定書』を反ユダヤ主義のプロパガンダに使うのではなく、日ユ同祖論を展開して、この文書のテーゼは日本人に課された任務でもあると親ユダヤ論に転換する。
今でもユダヤの失われた12氏族のうちの一つの氏族が極東の島に辿り着いて日本人の祖になったという日ユ同祖論の信者がいるが、それは酒井勝軍にはじまるプロパガンダがいまだに生きているためだ。だから、『プラハの墓地』という作品は、日本人にとっても無関係な話ではない。
「…愛国主義は卑怯者の最後の隠れ家だと誰かが言いました。道義心のない人ほどたいてい旗印を身に纏い、混血児は決まって自分の血統は純粋だと主張します。貧しい人々の最後の拠り所が国民意識なのです。そして国民の一人であるという意識は、憎しみの上に、つまり自分と同じでない人間に対する憎しみの上に成り立ちます。市民の情熱として憎しみを育てる必要があります。敵は民衆の友人です。自分が貧しい理由を説明するために、いつも憎む相手がいなければなりません…」という帝政ロシアの秘密警察幹部が主人公に言うシーンが出てくる。
これは、プロパガンダ文書云々というよりも、まさに現代の我々に突きつけられている状況そのものだ。こうした状況をどう乗り越えていけばいいのか、エーコの遺志を継いで、それを真剣に考え実践していかなければならない。
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