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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.82
2015年11月19日号
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◆今回の内容
1.鈴木大拙と神秘主義
・ビートジェネレーションと禅
・禅と神秘主義
2.お知らせ
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鈴木大拙と神秘主義
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先日、『鈴木大拙と東京ブギウギ』という面白いタイトルの本を読みました。
鈴木大拙といえば、禅の思想を欧米に紹介した日本屈指の仏教学者ですが、その鈴木大拙と軽妙な昭和歌謡がどうして並列されるのか、はじめは不思議に思います。でも、読み始めるとすぐにその謎が解けます。大拙には、アメリカ人の妻との間にアラン・勝という一人息子がいました。この息子が長じてポピュラーソングの作詞家となり、東京ブギウギの歌詞を書いたのです。
深遠な大拙の禅の思想とその正反対にあるような東京ブギウギ。息子である勝の人生もこの対比を映したかのように、酒に溺れ女にだらしのない、大拙に対するネガのようでした。
この本は「大学者・鈴木大拙」というレッテルによって隠されていた家庭人としての大拙の生きざまを息子の勝の人生と突き合わせながら解いていきます。純粋無垢の学者で宗教者というイメージが定着した大拙が、じつは、私人としては苦悩を抱えた普通の人間だったと知ることで、大拙の論説が霞んで見えることはなく、より身近に、そしてより広がりのあるものに感じられます。
大拙の著作を読んだことがない人なら、その思想に踏み込む前のプロローグとしてこの本を読めば、難解な言い回しの多いその著作も、微笑みながら読み進められるでしょう。
ところで、私がこの本の中でいちばん面白く感じたのは、私人大拙の姿ではなく、大拙と神秘主義、とくに西洋の神秘主義との関わりでした。
大拙が、18世紀のスウェーデンの神秘主義者エマヌエル・スウェーデンボルグに傾倒し、スウェーデンボルグの『天界と地獄』を嚆矢に、何冊もその著作を邦訳したのは有名な話です。さらに、大拙がロンドンで出版した『禅学への道 "An Introdution Zen Buddhism"』にユングが序文を寄せて、禅の思弁的な神秘主義を賞賛していることは本書で知りました。
また、大拙がアメリカの大学で精力的に講演や講義を行っていた1950年代に、ビートジェネレーションの立役者だったジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグとも直接の関わりがあったことも知りました。
今回は、鈴木大拙と神秘主義やビート・ジェネレーションとの関わりを概観しつつ、大拙が説いた「霊性」という概念を精神の内なる聖地という観点から見なおしてみたいと思います。
【ビートジェネレーションと禅】
ビート・ジェネレーションは1950年代にアメリカを中心に広がったカウンターカルチャーで、はじめは、「ニューヨークのアンダーグラウンド社会で生きる非遵法者の若者たち」の総称として用いられていましたが、その後、「世の権威を否定してあるがままに生きる世代」といった意味に置き換わっていきました。作家のジャック・ケルアックやウィリアム・バロウズ、詩人のゲイリー・シュナイダーやアレン・ギンズバーグらが牽引していきました。彼らは、ドラッグと酒とセックスに溺れ、その退廃的な生きざまを文学作品として表現することで、既成の権威に反旗を翻したのです。ケルアックの『オン・ザ・ロード(路上)』やバロウズの『裸のランチ』などがその代表作でした。
重度のジャンキーだったバロウズが著した『裸のランチ』は、自らのカオス的なトリップ体験と禁断症状をそのまま表現した作品で、「こんなものは文学からはほど遠い噴飯物の代物だ」と酷評される一方、「人間が根源的に繋がっている神話的な深層意識をはじめて赤裸々にした偉大な作品だ」と称賛され、文学界を二つに切り裂いて、センセーションを巻き起こしました。
ビート・ジェネレーションの作家たちは、皆、繊細で知性のある若者たちでした。彼らは知性的で繊細だからこそ、社会の矛盾や虚飾を黙って受け入れることができず、真の人生の意味や世の中の原理を知ろうとして、アウトサイダーになっていきました。
ギンズバーグは、コロンビア大学の学生だった頃、ニューヨーク公共図書館で一枚の屏風絵を見て感動します。それは、釈迦が長い修行を行ったにもかかわらず、悟りを得ることができずに山を降りていく姿を描いた「出山釈迦図」でした。これをきっかけに仏教に興味を抱いた彼は、大拙の『禅学への道』を読んで、本格的に禅に傾倒していきます。
ゲイリー・シュナイダーは、50年代半ばから60年代後半まで京都で生活し、相国寺や大徳寺で臨済禅を学びました。また、この時期に宮沢賢治の詩の英訳にも取り組みました。
禅は、言うなれば精神の内面を追求する哲学です。ビート・ジェネレーションが求めたのも精神の内面世界ですから、目指すところは同じだったわけです。ビート・ジェネレーションの作家たちは、ドラッグで自分の身を削るようにして精神の内面世界を探求していったわけですが、それには限界があることをまさに身をもって知り、自然に禅の志向する思索と直感の世界に惹かれていったのでしょう。
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