明治の廃仏毀釈まで日光東照宮に匹敵する隆盛を誇った筑波山中禅寺
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.75
2015年8月6日号
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◆今回の内容
1 東国に張られた結界と僧「徳一」
「徳一」という僧
筑波、いわき、会津に置かれたポイント
2 お知らせ
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東国に張られた結界と僧「徳一」
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福島県いわき市は、3.11の震災で大きな津波に襲われ、さらにフクイチの原子力災害でも一時的に市の一部が避難地域に指定れるなどして、大きな被害を受けました。福島県内で随一の水揚げ港である小名浜港もいわき市ですが、未だ本格操業には至っていません。
私の生まれ故郷は茨城県の鉾田市というところで、太平洋に面した鹿島灘の一角に位置し、その海岸線を辿るといわき市に行き着きます。自然環境も歴史や文化も似ていて、子どもの頃の特別な娯楽といえば、いわき市にある常磐ハワイアンセンター(現在のスパリゾート・ハワイアンズ)に出かけて、マンモスプールで遊び、フラダンスを観ながら豪華な食事を一家で楽しむことでした。
東京から故郷へ帰るときには、いわき行きの常磐線に乗るのですが、上野駅でこの列車に乗っただけで、半ば郷愁が満たされ、故郷に帰り着いたような気がしたものでした。ですから、私にとっていわき市は、故郷の一部ともいえる土地なのです。。
3.11では、私の生まれ故郷も震災で大きな被害を受けましたが、いわき市やその他の東北の街に比べればまだ復興への希望が残され、実際、今では、ほぼ震災前の暮らしが戻っています。ですから、未だ復興の長い道のりを歩んでいるいわき市の役に立てればと思ってきました。
そんな中、いわき市の復興事業の一貫として、レイラインハンティングによる聖地の掘り起こしと、その成果の観光資源としての活用というプロジェクトが舞い込んできたのです。
自分が関心を持っている土地からお呼びが掛かり、その土地の聖地調査をすることになるといったことがしばしばあります。それを自分では、「土地に呼ばれる」と言っていますが、今回は、まさにいわきという土地に呼ばれたわけです。
いわきは、小名浜という良港があって古くから海に開け、黒潮に乗ってやってきた海洋民が住み着いた場所です。その名残が金比羅神社や住吉神社として残っています。一方、古くから受け継がれてきた蝦夷の土地でもあり、彼らの信仰の痕跡も色濃く残っています。戦後日本の産業発展を支えた常磐炭鉱もこの場所であり、古代から豊富な鉱物資源を求めて、渡来系の鉱山技術者や山の民も定着していました。そして、中世には、本格的に東国進出を図る大和朝廷がこの土地を一大本拠地としました。
フタバスズキリュウという世界的にも珍しい恐竜の完全に近い化石が発掘されたことでも有名ですが、そのことは、太古からこの場所が生き物にとって住みやすい土地、土地の力が充溢した場所であったことがうかがえます。
そんな、様々な民族のプロムナードであったいわきの聖地は、日本という国の縮図ともいえます。ですから、いわきの聖地を調べていくことで、日本の成り立ちの構図が鮮明に見えてくるものと期待しています。
いわき調査の内容は、その都度この講座でも紹介していくつもりですが、今回は、いわきととくに関わりの深い中世の一人の人物に焦点を当ててみたいと思います。それは、法相宗の僧侶であった徳一(とくいつ)という人物です。
【「徳一」という僧】
徳一という名は、あまり聞いたことがないという人も多いでしょう。徳一は、最澄や空海と同年代の人で、伝統的な南都仏教のエリートでした。顕教主流の法相宗徒の立場から、勃興しつつあった密教に対する疑念を呈し、最澄との間で仏教論争を繰り広げ、空海に対しても書簡を送って、空海を唸らせたことでも知られています。当時は、最澄と空海に並ぶ仏教界の三大巨頭ともいえる一人でした。
そんな徳一の名が他の二人と比べて影が薄いのは、最澄と空海がそれぞれ跡継ぎに恵まれ、天台密教と真言密教を盤石なものにしていったのに対して、徳一の場合は、彼を引き継ぐ者がいなかったというのが大きな原因と言われています。後継者に恵まれなかったのは、徳一が東国に根を下ろし、他の二人が都近くに本拠を構えて、様々な影響力を行使したのと対照的な環境にあったことも大きいでしょう。
法相宗は南都六宗の一つで、仏教の教えとしては、もっともプリミティヴな唯識論の立場をとっています。この世の現象は客観的な実体のあるものではなく、すべては人の認識の問題であるとするのが唯識論です。一見、単刀直入で単純なようですが、大乗仏教の中でもとくに哲学的であり、そのエピステーメーの根幹に関わるといってもいいその理論体系はかなり難解です。
インドから法相宗を中国に伝えたのは、西遊記の主人公としても描かれた玄奘です。さらにそれを奈良にもたらしたのは、遣唐使あるとか朝鮮半島経由であるといった説がありますが、明確にはされていません。
言い伝えによれば、徳一はその法相宗を修めたエリートでありながら、硬直した奈良の仏教界に嫌気がさして出奔し、辺境の地であった東国に骨を埋める覚悟で布教の旅に立ったとされています。このパターンは、空海がまさに同じですね。
空海の場合は、エリートとして奈良の大学に入学したものの、南都仏教が教条主義に陥り、実践論を欠いていることに嫌気がさして、山野で修行を積む私度僧として野に下ったとされています。そして、山野での修行を通して修験や道教、密教に触れ、一念発起して遣唐使になると、中国で真言密教正系伝承者として認められて帰国し、一躍、日本宗教界に大スターとしてデビューしたのでした。ちなみに、最澄は型破りな空海とは対照的に、地道にエリートとしての道を歩み、国家から認められた正式の使節として中国に渡り、あらかじめ決められたプログラム通りに天台密教を日本に招来しました。
話を徳一に戻します。先に、徳一の奈良からの出奔をあえて「言い伝えによれば」としたのは、徳一が南都仏教に嫌気がさしたり、その教えに限界を感じたためというのは表向きであり、実際には生粋の法相宗徒としての自負を持ち、東国平定祈願の使命を帯びて東国に向かったと思われるからです。
それは、東国に拠点を置いて後も一貫して法相宗徒としての立場を取り続け、最澄には論争を仕掛けてこれを論破し、さらに空海にも手厳しい質問状を送りつけて、空海をたじろがせたことでも明らかです。
また、奈良における法相宗の中心である興福寺では、毎年、維摩会と呼ばれる法会が行われますが、その講師として招聘されることは仏教会最高の栄誉とされています。徳一はその講師を務めるために上京し、これを無事務め上げた数日後に入滅します。このことは、徳一は東国にあっても法相宗のメインストリームを支える生粋のエリートであり続けたことを証明しています。
そんな徳一が、東国に残した遺蹟を考察すると、徳一が帯びていた東国平定祈願の使命が鮮明になってくるのです。
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