先週の土曜日は朝日カルチャーセンターの講座で、『火山信仰と日本神話』というタイトルで話をした。
7300年前、鹿児島の南海上に浮かぶ喜界島近くで巨大噴火が起こった。このときできたカルデラは北西-南東約25km、北東-南西約15kmにも及ぶ楕円形で、地学的には「破局的噴火」と呼ばれるスケールの噴火だった。
この鬼界カルデラの噴火で南九州は火砕流に飲まれ、さらに九州全域、四国の全域が厚い火山灰に埋もれたとされる。現在、九州では縄文時代の早期から前半にかけての遺跡が他の地域に比べてとても少ないが、それはこの噴火によって縄文早期に栄えた九州文明が壊滅したからではないかと推測されている。
今回の講座の中心は、この噴火に遭遇した初期の九州縄文人の中で、辛くも九州を脱出して生き延びた人間たちが、東へ移動し、彼らを襲ったカタストロフの記憶が受け継がれていって、それが日本神話の中に記録されているのではないかという話にした。
具体的には、天岩戸伝説と神武東征神話がこのカタストロフの記憶に基づくものではないかということだが、これは九州の破局噴火が現代に起こるというテーマで書かれた石黒曜の『死都日本』でも触れられている。
あるとき、高天原でスサノオが怒り狂って狼藉を働いた。田の畦を壊して溝を埋め、アマテラスの御殿に糞をまき散らし、さらに馬の皮を剥いで放り投げると、これが機織り小屋の屋根を突き破って落ち、中にいた機織り女が驚いた拍子に自分のホト(女陰)を突いて死んでしまった。このスサノオの狼藉に悲嘆したアマテラスは、天岩戸の中に引きこもり、このために世界が闇に包まれる。
この天の岩戸伝説では、スサノオの狼藉の内容が具体的なわりに唐突な印象がある。ふつうに暴力を働くなら、単純にものを壊したり、人を死傷させたりするようなものだが、田の畦を壊すとか、馬の皮を剥いで放り投げるという行為には、単なる暴力以上の意味がありそうに見える。
これを火山噴火で起こる現象として考えてみると、しっくりくる。つまり、田の畦が壊れたのは噴火に伴う地震や火砕流、土石流を表しているのであり、また御殿に糞が降り注いだというのは、火山灰の降灰やスラッジが降り注ぐ様子、皮を剥がれた馬は、当然血だらけで、その姿は赤熱した大きな火山弾を想像させる。高天原を噴火災害が襲ったと想定すれば、スサノオの唐突な暴力の内容が不自然ではなくなる。
また、アマテラスが天の岩戸に隠れるて世界が闇に包まれた後、神々が様々な方法を使ってアマテラスを引き出そうと苦労して、ようやくアメノウズメの裸踊りに興味をそそられて出てくるわけだが、これも大規模噴火で空が噴煙に閉ざされていたのが、何日かかかってようやく晴れた光景と見れば自然だ。
天岩戸神話は、日食の様子を伝えたものだとか、冬至に太陽が死んで再生する太陽信仰を象徴的に語ったものという解釈がされているが、それよりも火山噴火の様子と考えたほうがしっくりくる。
天の岩戸は日向の高千穂にあったとされるが、そこはちょうど喜界カルデラの噴火の直接被害を受けた領域にあたる。
神武東征神話は、ちょうどこの高千穂あたりからスタートするが、これを南九州の縄文人が噴火から逃れて移動をしていったルートの記憶だと考えると、これもしっくりくる。
講座は、そんな話を中心に進めていった。
記紀神話として日本神話が記されたのは8世紀であり、神武天皇と推定される崇神天皇は3世紀頃の大王だから、鬼界カルデラの噴火は崇神天皇の時代からでも5500年も昔のことになる。
天岩戸神話や神武東征神話が、鬼界カルデラの噴火の記憶を物語ったものだとして、それが5500年も話が受け継がれていけるものだろうかという疑問が残る。この疑問については、記憶に残る可能性は高いとぼくは考える。
というのも、明らかに太古の記憶を伝えていると思われる神話や言い伝えが世界各地にはあるからだ。以前、伊豆の創世神話を紹介したが、伊豆半島の地学的な成り立ちをかなり正確に表している。
文字で記録を残すことが当たり前の我々は、正確な記憶は文字で書かれた記録でなければ伝わらないと思い込んでいるが、人類が文字を獲得してからそんなに長い時間は経っていない。文字を発明する以前にも人類の長い歴史がある。たとえば縄文人たちは、5000年以上も高度な「文明」と呼べるような社会を築いていたが、その間、彼らの記憶は言葉として受け継がれていたのだろう。
鬼界カルデラの噴火の記憶が太古の縄文人たちに受け継がれ、それが5000年以上経って、記紀神話として文字に記されたと考えても不自然ではないと思う。逆に、文字に記されたが故に、その文書の編纂を命じた権力に都合のいいよに書き換えられて、記憶がねじ曲げられてしまったせいで、正確さを欠いてしまったかもしれない。
しかし、人類の「種」としての記憶は、いったいどれだけの年月受け継がれていくのだろう?
そのあたりの時間のオーダーはまったく想像がつかないが、一つだけはっきりしているのは、「種」が変わってしまったら、記憶は確実に途絶えてしまうということだ。
つい先年、フィンランド政府が原発から出た高濃度核廃棄物をオルキルオト島の安定した地層に埋蔵処理すると発表した。このオンカロと呼ばれる施設に埋蔵された核廃棄物が生物にとって無害となるのは10万年後だ。
10万年…それはもはや「種」の歴史を超えてしまう。
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