昨日は、朝日カルチャーセンター湘南教室の野外講座で、鎌倉のレイライン(結界)を巡った。ちょうど日和が良く、鶴岡八幡宮では立て続けに結婚式が行われ、また七五三の家族連れが多かった。それに三連休の初日で、鎌倉駅から若宮大路、鶴岡八幡宮までの間は、人が隙間なく道を埋めていた。
鎌倉幕府といえば、多くの世代の人たちが「1192(いいくに)作ろう鎌倉幕府」と年表を記憶したはずだが、今は、源頼朝が実質的な権力を得て鎌倉を整備し始めた1185年が、鎌倉幕府の開府の年とされている。1192年は頼朝が征夷大将軍の位を得た年で、この頃には、すでに鎌倉が政治の中心として機能していた。
鎌倉幕府の整備にあたって、最初に政庁が置かれたのが鶴岡八幡宮付近で、その後すぐ、京都の岩清水八幡宮が勧請されて鶴岡八幡宮となった。ノーマルな神社は、社殿は南面し、参道は南へ向かって伸びているが、鶴岡八幡宮はやや西に傾いた形で、由比ヶ浜の西端のほうを向いている。それは、石清水八幡宮から勧請されたご神体が最初に上陸した地点を指している。また、鶴岡八幡宮の境内には、「若宮遥拝所」があるが、これは上陸したご神体を最初に安置した若宮神社を拝む形になっている。
鎌倉といえば、大仏も有名だが、現在の鋳造大仏がいつ作られたのか、また誰が作ったのかはわかっていない。鶴岡八幡宮との位置関係を見ると、鶴岡八幡宮から大仏の方向は冬至の入り日の方向に合致し、大仏が阿弥陀如来で八幡神の本地仏であることから、源氏の氏神である八幡神と太陽の再生の力を結びつけて、鎌倉幕府の繁栄を祈念したことは間違いない。とすれば、大仏鋳造を発案したのは頼朝だと考えられる。ところが、史実には記録されていない。
頼朝といえば、実の弟である義経の人気に嫉妬し、これを討ち取らせたり、義経の後ろ盾だった奥州藤原氏を討滅したり、また、自身は妻の北条政子に頭があがらず、政治の実権は妻の実家である北条氏に握られるといった、ネガティヴなイメージばかりが伝えられている。
今回の野外講座では、鶴岡八幡宮を起点に、東へ向かって、白幡神社、頼朝の墓、荏柄天神、鎌倉宮、永福寺(ようふくじ)、護良親王墓と巡った。永福寺以外はまっすぐ東西に並び、春分秋分の太陽の光が貫く形になっている。
白旗神社は鶴岡八幡宮の摂社で。頼朝を祭神とする。鎌倉幕府の立役者で鶴岡八幡宮の造営も頼朝が命じたのだから、本来、頼朝は鶴岡八幡宮の祭神に列せられてもいいはずだが、境内の外に白旗神社の小さな社が置かれ、あまり訪れる者もない。
さらに頼朝の墓は、薄暗い森の中にあって、今でこそ参道が整備されているが、昔は藪に覆われて、墓石も崩れるままに置かれていた。さらに江戸の中期に墓石が建てられるまでは、墓石もなく、森の入口の社に申しわけのような墓標が立っていたという。今ある墓石は、安永8年(1779)に自ら頼朝の子孫と称した薩摩藩主・島津重豪が建立した。
頼朝に対する、こうしたぞんざいな扱いを見ると、やはり鎌倉幕府は頼朝を傀儡とする北条氏の政権だったという実感を強くさせる。
鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』には、頼朝は、相模川で催された橋供養の帰り道に落馬し、このときの怪我がもとで亡くなったとあっさり記されている。しかし、これは北条氏による暗殺だったという説が一般的だ。頼朝の跡を継いだ息子の頼家は、まだ18歳と若かったことを理由に、後ろ盾として設けられた北条氏を中心とした合議に実権が移る。ほどなくして重病を患った頼家は修善寺に幽閉されてそこで亡くなってしまう。
さらに頼家の跡を継いで将軍となった弟の実朝は暗殺され、これで頼朝の直系は途絶え、名実ともに執権の北条氏が権力を掌握する。
「頼朝さんは、こうしてひっそりとしたところに眠って、ほっとしてるんじゃないでしょうかね」と、参加者の一人が呟く。幼いときに遠流となり、その後、伊豆から鎌倉へと豪族の間をたらい回しにされ、俄に平氏討滅の機運が高まると、その旗頭に据えられ、さらに平氏壊滅の後は、自分の係累を掃討する嫉妬深い権力者として喧伝された。頼朝は、自分がイニシアチブを発揮することなどなく、用が済めば粛清された。不本意で慌ただしい人生を終えた頼朝は、たしかにこの叢の中でホッとしているようにも感じられる。しかし、西方浄土へ向かう頼朝の霊は、西に配置された鶴岡八幡宮に遮られ、死後も鎌倉幕府の守護神としての役目を押し付けられているようで、哀れにも思える。
頼朝の墓の東には、荏柄天神が置かれている。天神の名が示すように、ここは菅原道真の怨霊を祀った神社だ。太宰府、北野とともに三大天神の一つで、鎌倉幕府開府の際に、頼朝が鬼門封じのために建立したとされる。
この荏柄天神の近くに住んでいた漫画家の横山隆一氏がよく訪れ、絵筆供養を行ったことをきっかけに、漫画家たちが定期的に絵筆供養をするようになった。昨夜はちょうどその供養の日に当たり、近在の漫画家たちが一コマ漫画を描いたぼんぼりが参道に並んで、日が暮れるとそれに火が灯されて、子どもたちの祭りばやしをBGMにゆるゆると風に揺れていた。
荏柄天神の東には鎌倉宮がある。ここは、明治2年に明治天皇の命により造営された。祭神は後醍醐天皇の皇太子護良親王で、新興の神社には異例の官幣中社に列せられた。
元弘3年(1333)、新田義貞を中心とする軍勢が北条氏を滅ぼして、鎌倉幕府は滅亡する。このとき、後醍醐天皇の第三皇子で天台座主として「大塔宮」と呼ばれていた護良親王が還俗して戦いに参加し、大きな武功を立てた。
鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は親政(天皇が直接政治を行うこと)を開始する。この「建武の親政」は、長く武家に握られていた政治を天皇と公家の手に取り戻す運動だったが、足利尊氏の反乱によって瓦解し、後醍醐天皇は吉野に逃れて南朝を開くことになる。
建武政権下で、護良親王は征夷大将軍に任じられるが、父である後醍醐天皇に疎んじられるようになり、天皇暗殺を企てたという濡れ衣を着せられて鎌倉に配流され、ここで暗殺されてしまう。この後醍醐と護良親王の関係は、頼朝と義経の関係を連想させる。
鎌倉宮は、武家から天皇へ権力を取り戻す功績を建てた護良親王を手厚く祀ることで、武家の徳川から政権を取り戻した明治天皇が、天皇中心の政権を永らえるための守護神とするいう意味合いがあった。
鎌倉幕府は、武家がはじめて公に日本の政権を手にした場所であり、そこに張られた結界を破ることで、武家が二度と政権を手にしないようにという呪い(まじない)の意味が鎌倉宮にはこめられていた。
昨日は、鎌倉宮でもちょうど薪能の奉納があり、いつもはひっそりとしているこの界隈も賑わっていた。能の演目は、源氏物語に材をとった「野宮」で、妄執に囚われた六条御息所の霊が、旅の僧によって供養される話。狂言の演目は「磁石」で、こちらは旅の者があやうく人買いに誑かされそうになるのを逃れ、追ってきたその人買いが抜いた刀を「磁石の精だ」と言って飲み込もうとして難を逃れる話。
野宮は護良親王の霊を慰める演目ともとれる。また、護良親王は暗殺されたときに、果敢に戦い、白刃を口で受け止めてその刀をへし折ったと伝えられているが、磁石という演目はそんな伝説をなぞらえているものともとれる。
そんな奉納薪能が行われる日だとわかっていれば、この薪能の鑑賞を講座のしめくくりにしたのだが…。
能の準備のために15時で参拝はシャットアウトされていたため、仕方なく最後の目的地である護良親王墓に向かったが、なぜか道を間違えて、鎌倉宮裏手の永福寺跡に出てしまった。
今は、ただススキの原が広がっているだけだが、ここにはかつて頼朝が建立した永福寺があった。永福寺は平泉中尊寺の二階大堂、大長寿院を模したもので、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つとされた。この周辺の地名は二階堂というが、これは、永福寺の二階大堂に因んだものだ。
頼朝は、どうしてわざわざ奥州藤原氏の菩提寺であった中尊寺を模した寺院をここに建立したのだろう。それは、奥州に散った実弟の義経の霊と、藤原氏の鎮魂のためではなかっただろうか。鎌倉初期には隆盛を誇ったこの永福寺も、応永12年(1405年)の火災ののち廃絶されて、今は頼朝の墓と同じように、虚ろな雰囲気を漂わせている。
鎌倉の三大寺社のもう一つの寺である勝長寿院も、もはやその姿は残っていない。この勝長寿院は頼朝の亡骸が一時安置された場所でもあった。
途中で道に迷って道草を食ったために、最後の目的地である護良親王墓に着く頃には、日は鎌倉の北山の端にかかり始めていた。
まるで、「護良親王の魂は鎌倉宮に移されてしまったのだから、ここには用がない」とばかりに、道標もなく、住宅街を抜けた外れの丘の麓から登る参道の階段は苔むし、ひび割れはそのまま放置されていた。
護良親王の暗殺者は、折れた刀を咥えて鬼のような形相の護良親王の首を欠け残った刀の二の太刀で切り落とすと、形相のあまりの恐ろしさにそのまま打ち捨てて逃げてしまったと伝えられている。その首を拾った僧が、今に残るこの墓に供養したのだとされる。そんな逸話を知らなくても、この場所は人を寄せつけない凄絶な妖気のようなものが満ち満ちている。護良親王の魂の悲憤が、まだこの地で脈打っていると感じさせる。それは、頼朝にまつわる場所で不穏な気配がまったく感じられないのと対照的だ。
半日辿ってきた道を引き返して鶴岡八幡宮まで戻ってくると、日はとっぷりと暮れ、ライトアップされた階段上の本殿と、それを四囲篝火が焚かれた拝殿が浮かび上がっていた。参道には灯明が並べられ、拝殿まで続いている。そこで夜景を撮っていると、背後から笙と篳篥の甲高い音色が聞こえてきた。その雅楽を先頭に、東参道から正面の参道に折れて、婚礼の行列がやって来る。
昼間も何組かこの参道を進んでくる婚礼の行列があったが、夜の挙式は、いっそう厳かで、緊張感があった。
拝殿に上がった花嫁と花婿は、白く浮かび上がる本殿を見上げながら、祝詞奏上を受け、巫女舞に祝福されていた。
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