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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.49 2014年7月3日号
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◆今回の内容
1 箸墓と邪馬台国
・箸墓古墳
・邪馬台国
2 お知らせ
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箸墓と邪馬台国
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昨夜は、奈良県御所市の副市長宮谷太さんと、TBSの関係者とと もに楽しく会食させていただきました。
御所市といえば、役小角の出身地であり、役小角が修験道を確立 した葛城山、金剛山を擁し、さらに古代ヤマトで大きな権力を握っ た葛城氏と巨勢氏の本拠地です。
宮谷さんは、長く奈良県の土木行政に携わられていて、退職後に 請われて副市長になられた方で、ご自宅は橿原神宮の目の前にあり ます。当然、奈良の文化財には詳しく、巨大古墳と活断層との関係 や、修験道に秘められた方位観といった話題で盛り上がりました。
この御縁から、奈良で本格的にレイラインハンティングによる観 光資源開発の仕事ができればと夢を膨らませています。
また、今回の聖地学講座では、奈良の巨大古墳を代表する一つで ある箸墓古墳を取り上げようと考えていましたので、昨日、話題が 古墳に至ったことにも、不思議な縁を感じました。
【箸墓古墳】
昨日の宮谷さんとの話にも出たのですが、奈良盆地に点在する巨 大古墳の謎の一つに、古墳が向く方位がまちまちなのが挙げられま す。南北、東西、それに夏至や冬至の太陽の運行線を指すというレ イラインではポピュラーな法則が当てはまるのはごくわずかで、数 百もある古墳の大半は、レイラインや風水の理屈に合わないいい加 減な方位を向いているのです。
『レイラインハンター』では、空海が若狭の三方石観音の大岩に 彫った観音像が、20kmあまり離れた小浜の瓜割の滝を正確に指して おり、これが有力な水銀鉱脈を指している例を取り上げましたが、 一見ランダムに見える方角を指す物件は、次の手がかりに繋がる物 件を指し示すことが多々あります。
奈良の巨大古墳も、それぞれの向きを精密に検証し、古代の地図 と照らしあわせてみると、意外な聖地のネットワークが浮き上がっ てくるかもしれません。
同志社大学で長く教鞭をとられていた地質学の中川要之助博士は、 近畿の巨大古墳が活断層上に並んでいることを発見しましたが、も しかすると、断層の向きに沿って方位が決められているものもある かもしれません。 この、奈良盆地の巨大古墳の向きの謎は、いずれ現地に赴いて、 宮谷さんをはじめ先学の教えを請いながら、実地調査をして解明し てみたいと思っています。
今回は、そんな奈良盆地の古墳の中でも、とくにミステリアスな 箸墓古墳に焦点を当ててみたいと思います。
日本では3世紀のはじめころから大規模な古墳が現れ始め、3世紀 半ばからは特徴的な前方後円墳が目立つようになります。そして、 7世紀末ごろまで、いわゆる「古墳時代」が続いていきます。
3世紀の半ばに造立された箸墓古墳は、奈良盆地の前方後円墳の 中でももっとも古いものの一つであり、全長が290mという規模は同 年代の他の古墳に比べて群を抜いています。それは、この古墳の被 葬者が非常に位の高い人物であったことを示しています。邪馬台国 畿内説では、この箸墓古墳が卑弥呼の墓ではないかと考えられてい ます。
ところで、中学の歴史ではじめて「前方後円墳」を習ったとき、 どうして方形のほうが前で円形のほうが後ろなのか疑問に感じた人 が多いのではないでしょうか。俯瞰してみると、昔の鍵穴の形にそ っくりなこの古墳は、円が前で方形が後ろと見たほうがバランスが とれています。ところが、「前方後円」というようにその逆が正立 とされるわけです。これは、方形のほうが魂の出入口であると考え られたからなのです。
能の世界には、「橋掛かり」という舞台装置があります。これは、 あの世とこの世を繋ぐ道であり、物語が転換していく場でもありま すが、この「橋掛かり」は、前方後円墳の前方部が原点であるとさ れています。
前方後円墳では、被葬者は円型の墳墓に安置されます。その墳墓 と天を結ぶのが、前方に伸びた方形部です。この前方は天と地上を 結ぶ橋となり、被葬者の魂がこの橋を通って天と行き来することに よって、天の力を地上にもたらすと考えられたのでした。
箸墓古墳では、方形部が葛城山の方角を指し、これは冬至の入り 日の方向に符号しています。また、逆方向は、大兵主神社とその先 の弓月岳を指し、これは夏至の日の出の方向に符合しています。
修験道の開祖である役行者が修行を積んだ山でもある葛城山は、 奈良の重要な聖山の一つです。箸墓がその葛城山を向いている、し かも冬至という太陽の再生を象徴する方位にそれが合致していると いうことは、ここに埋葬された人物の魂の再生を願う意図が見て取 れます。さらに反対を向くと、夏至の太陽の光が弓月岳から大兵主 神社を貫いて箸墓に達することから、弓月岳と大兵主神社に関係す る何かが箸墓の埋葬者に対して、力を及ぼすことが意図されている のではないかと推測されます。
弓月は、秦の始皇帝の末裔と言われる弓月君のことで、葛城山麓 を拠点にした葛城氏が弓月君の一族が日本に渡来するのを助けたと 記紀に記されています。日本に定着してからの弓月君の一族は、秦 氏と名乗るようになります。以前、この講座でも触れたように、こ の秦氏が古代日本の技術革新や政治に重要な役割を果たしていくこ とになるわけです。
「弓月」の名がついた山を背負い、弓月君一族を日本に招聘した 葛城氏の聖山を向くということは、箸墓の埋葬者が弓月君か葛城氏 かどちらかに関わりの深い人物ではないかと考えたいところです。 しかし、時系列を見るとそう単純には割りきれません。箸墓の創建 年代は3世紀の半ばで、葛城氏が活躍する時代は4世紀からなので、 箸墓のほうが100年あまり先行しているのです。このことから、弓 月君や葛城氏は、すでに存在して何らかの信仰を集めていたこの箸 墓の意味合いを利用して、自らの政治的な基盤を確立し繁栄を願っ たと考えるほうが自然でしょう。
ちなみに、もう一つのキーとなる大兵主神社ですが、この祭神は、 古代中国の武神である蚩尤(しゆう)で、この蚩尤は漢の高祖が祀っ た神として知られます。中国の神獣を紹介する山海経では、蚩尤は 砂を食べて鉄を排泄する神獣とされていました。鉄を生み出すこと から、製鉄の神として崇められ、また鉄の武器をもたらす武神へと 昇格していきました。
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