最悪の原発事故という取り返しのつかない破局を迎え、同じ破局をもたらす原発や高レベル廃棄物、再処理施設がこの列島を覆い尽くすように存在しているのだから、理性的に考えれば、原発を一刻も早く全廃し、今まで貯めこんでしまった核のゴミを曝露させないように処置するのが当たり前だ。
ところが、そんな当たり前の判断が何故か下されない。
「原発を止めれば、電気の供給が滞って国民生活に支障をきたし、今でさえ不況のどん底にあるのに、経済活動がさらに落ち込んでしまう」という『人の命より経済のほうが大切』という本末転倒な理屈がまかり通り、挙げ句の果てには、福島を経験した日本の原発はよりフェイルセイフの意識が高くなり、安全性は世界一だとか、その原発を発展途上国にパケージ化して輸出しようなどという錯乱した話まで飛び出してきてしまう。
昨日、東電は福島第一の二号炉圧力容器底部の温度が2日から再び上昇しはじめ、3日から注水量を増やしたが温度を低下させることができなくなっており、その原因は不明だと発表した。昨年末に「冷温停止状態」を宣言し、福島の事故は収束したとしたが、こんな事態が起こって、いったい何が「収束」したというのだろうか? そして、原因不明で温度が上がるということは、その先に起こる事態も予測できないことでもあるのに、3日も経ってからそれが渋々公表されるというまったくの不誠意。
理性的な判断ができない…もしくは、しない…ばかりか、あからさまな嘘や不実がまかりとおってしまう。それはいったいどういうことなのか? 福島の惨事が起きて以降、それがどうしても理解できなかった。
本書『新版 原子力の社会史』を読んで、ようやくその疑問が氷解した。
本書が描いているのは、日本が原発という重篤な病にとりつかれている実態だ。
発端は、1950年代前半に中曽根康弘、正力松太郎が将来の日本の核武装を視野に入れて、原発を導入するという方針を打ち出し、政治決定で早々に予算をつけてしまったことから始まる。
それまで科学界は核の平和利用について懐疑的で、原発の導入にも反対していた。そもそも原発…というより原子炉は、核兵器の原料であるプルトニウムを取り出すための装置であり、原子炉が運転されることで生み出される熱を発電に利用しようというのは、とってつけたように考えだされたオマケ的発想だった。だから、原発は原子炉という20世紀中盤に登場した科学に蒸気機関という19世紀をドッキングさせた、恐ろしく異様な機械となっている。原子炉を水を沸騰させる釜として使うのではなく、もっと洗練された発電方法があると思うが、「発電」というのは核兵器原料生産のオマケでしかないから、ここに技術的イノベーションを持ち込もうという発想はなかった。
無理やり原子力利用予算がつけられてしまうと、これを使うための部署が設けられ、利権の歯車が回りだす。当初、核利用に反対していた科学界も予算がついたとなると話は別で、そこから自分たちの取り分を確保しようと動き出す。
科学界は文部省傘下の科学技術庁と一体となり、一方、通産省と電力業界が一体となって二大勢力が原子力予算と原子力政策の決定権をニ分するようになった。この二大勢力が競りあっている間は、まだ互いに対する監視機能が働いていた。
ところが、2001年の行財政改革にともなう省庁統廃合で、科学技術庁は文科省に吸収され、通産省に変わって経産省が発足すると、原子力行政はほとんどすべて経産省の管轄となってしまう。このとき、本来は原発の安全を監視するはずの機関である原子力安全・保安院が経産省内部に設けられたため、原発を推進する官庁・電力業界と監視機関が一体化してしまうという矛盾が生じる。
世界的には1986年のチェルノブイリ事故の後、原子力発電は低調となり、1990年代を通じて原発離れが進んでいく。それは、原発建設とその維持管理、放射性廃棄物の処理コストを総合すると、他の発電方法のほうが圧倒的に安価で、あえて原発を進めるメリットがないからだった。そこには、電力が自由化されている主要先進国では、原発に無駄なコストをかけていては競争力を失ってしまうという背景がある。
2000年代に入ると、一時、「地球温暖化防止」のためのエネルギーとして原発を推進しようというプロパガンダが打たれるが、電力自由化の先進国ではこれに便乗する電力会社はなかった。一人日本だけが、このスローガンを盾にとって、国策としての原発を推進していく。
いったん政策として掲げられ、そこに予算がつき、行政と産業界が一体となると、それはがん細胞のようにどんどん増殖していく。原子力産業という「がん」は、自分の宿主である日本という身体が死んでしまうまで増殖を続けていくだろう。
がん細胞は、自分が増殖するために新たな血管を作り、他へ回るべき養分を吸い取る。そして、周囲の細胞はがん細胞が吐き出す毒素で死んでいく。原子力産業にとっての「血管」は、利権を守るために次々と打ち出されてきた政策であり、国民から自由に利益を吸い上げる「総括原価方式」というシステムだった。
じつは電力会社は原発の建設には、けして前向きではなかった。それは、建設のためのイニシャルコストや廃棄物処理などのランニングコストが篦棒にかかり、しかも複雑すぎるシステム故の事故や故障のために安定した運転ができないために、バックアップとしての発電システムも整備しておかなければならなず、どこからどうみても採算に合わないからだった。原発の建設費諸々を原価に上乗せして利用者から吸い上げる「総括原価方式」がなければ、電力会社は原発になど手を出さない。
1990年代後半、電力自由化の機運が高まってくると、電力会社は危機感を持った。そこで、国策として原発を推進したい政府に対して取引を持ちかける。それは、原発を推進するのと引き換えに、電力自由化を形ばかりのものにして、総括原価方式を維持するというものだった。それが、今に続き、結局は福島という悲劇をもたらしたというわけだ。
本書は、高速増殖炉が開発不可能であるということや再処理の技術が日本にはないことも浮き彫りにする。
高速増殖炉はアメリカもフランスもその技術的困難さにいち早く見切りをつけて撤退した。日本がこれにこだわるのは、高速増殖炉の開発が原子力行政の中で当初通産省=電力業界勢力と拮抗していた文部省=科学技術庁勢力が骨抜きにされた後、矮小化された利権を必死に守ってきた開発プロジェクトが高速増殖炉だったという背景がある。誰がみても将来性のない技術にこだわるのは、そこに残された利権があるからだ。
再処理に関しては、再処理技術が、元々核兵器に使うためのプルトニウムを取り出すための技術として開発されたもので、何万発もの核ミサイルを生産していたアメリカ、フランス、イギリスにとってはノウハウが蓄積された技術だった。それでも、周辺への深刻な放射能汚染を引き起こし、再処理からは撤退して地中処分するという方針が打ち出されている。
核兵器を生産したことのない日本には、プルトニウムを効率良く取り出すための再処理技術はない。しかも、核不拡散の原則から肝となるような技術を移転してもらうことも期待できない。原発を動かすことで吐き出される膨大な量の放射性廃棄物は、再処理もできなければ、狭い国土に最終処分もできず、原発施設内の仮置き場であるプールに溜まっていってしまう。たとえ原発が運転を停止していたとしても、この使用済み核燃料プールが地震や津波で崩壊すれば、蓄積された核兵器何千、何万発分もの放射性物質が撒き散らされることになってしまう。
原発は日本という身体に巣食った「がん」以外の何ものでもない。この「がん」を克服するためには、まず、生きているがん細胞を死滅させるために、栄養の供給源と「血管」をなくさなければならない。栄養の供給源は、「総括原価方式」という電力料金システム。血管は「送電システム」だ。
そう考えれば、脱原発を実現するための一つしかない具体的な方法が見えてくる。
それは、電力を自由化し、発電と送電システムを一つの事業者から分離することだ。これさえ実現できれば、無茶苦茶なコストのかかる原発を建設しようなどという電力会社はひとつもなくなる。
以上は、ぼくが意訳も加えて大雑把に概観した内容だが、原著をぜひじくり読んでみてほしい。そこには、戦後から福島第一原発事故にまで至る原子力の歴史が詳細に綴られている。これを読めば、上記のように、いくら理性で危険性を説いても、自己増殖のみが行動規範である「がん細胞」には何の意味もないということが、はっきりとわかるはずだから。
がんの正体を見つけ、対症療法ではなく根治する方法もわかれば、それを実行するのみだろう。我々、選挙民にとっての唯一の方法は、その根治療法を行なってくれる政党、政治家を選ぶことしかない。
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