主人公と、彼の大学時代の親友で、ユダヤ人の"マスカリータ(仮面)"…顔にある大きな痣のためにこのあだ名がついたが、本人はまったく気にしていない…サウル・スラータスをめぐる物語。
ペルーの首都リマにあるサン・マルコス大学で、主人公とともに学んでいたサウルは、アマゾン奥地への旅をきっかけに、密林を放浪するマチゲンガ族のことを知り、彼らに惹かれるようになる。そして、休みのたびにアマゾンの奥へと分け入り、マチゲンガ族との交流を果たす。
サウルはマチゲンガ族とともに過ごしたフィールドワークをもとにした論文が評価され、学校からただ一人のフランスボルドー大学への留学生に選出される。しかし、サウルは、民族学や言語学こそが文明に毒されていないアマゾンのピュアな民族たちを滅ぼす元凶だと毛嫌いするようになっていて、留学を辞退し、年老いたユダヤ人の父親が経営する小さな食料品店を手伝うことにする。留学のお鉢は、サウルから主人公に回ってくることになる。
大学を卒業し、長い年月が経ったある日、主人公は休暇で滞在していたフィレンツェの街角にあった画廊で、一枚の写真と出会う。そこには、サウルが心惹かれていたマチゲンガ族の姿があった。マチゲンガ族にとって神秘のシャーマンであり吟遊詩人である『語り部』が、小さな集団で放浪する一つのバンドと出会い、車座になったバンドの中心に語り部が腰を下ろして、神話を語り聞かせている場面。それは、本来、ありえない写真だった。
主人公はフランスに留学した後、民族学者となった。そして、かつてサウルが語ってくれたマチゲンガ族の語り部のことが忘れられず、何度も調査したがついに出会うことがかなわなかった。
何故、フィレンツェの画廊に作品を託した写真家は、主人公が求め続けて出会えなかった語り部と出会うことができ、しかもマチゲンガ族にとって、外部の人間には絶対の秘密である語り部が、まさに神話を語っている姿を撮影することを許したのか…。
冒頭の写真との出会いから、物語は、学生時代のサウルとの交流へ、そして語り部の神話世界へと飛び込んでいく。唐突に始まる語り部の神話は、時間と空間を無視して、脈絡なく進んでいく。はじめはカオスのようなその世界と語り口に困惑させられるけれど、次第にそのリズムが心地良く感じられるようになり、カシリ=月の生い立ちやセレピガリ=賢人の知恵、キエンチバスリ=悪魔やマチカナリ=小悪魔、そしてたくさんの動物や植物が織り成すアマゾンのジャングルならではの豊穣というよりは過剰で坩堝の中のように密度の濃い自然に、自分も溶けこまされていくような気がしてくる。
マチゲンガ族の語り部が展開する自然観は、様々な場面で瀬戸際に立たされている今のぼくたちにとって、奥深い示唆を与えてくれる。
「<<大切なことは、焦らず、起こるべきことが起こるにまかせることだよ>>と、彼は言った。<<もし、人間が苛々せずに静かに生きていたら、瞑想し、考える余裕ができる>>そうすれば、彼は運命と出会うだろう。おそらく不満のない生活ができるだろう。身につけたことを忘れることもない。だが、もし急いて苛立ったら、世界が乱れるだろう。魂が泥の中に落っこちてしまう。それは混迷だ。最悪だ。この世と放浪する人々の魂にとって。そうなったら、どこへ行ったらよいか、何をしたら良いかわからなくなる。自分を守る方法も見失ってしまう。どうしよう、どうすべきだろうと言いながら。悪魔や小悪魔が人の生活に忍び込んで人を篭絡するのは、そんなときだ。子どもが蛙を跳ねさせて玩具にするように、悪魔は人間を愚弄するだろう。間違いは、いつも混乱から起こる」
「もし、この世に禍が起こるとしたら、それはこの地のことに注意を払わないからだ。それは、人間の気持ちが疎かになっているからだ。この大地を、するべき方法で大切にしないからだ」
「大地が嘆いているのなら、私は何かしなければならない。どうしたら太陽や川の力になれるか? どうしたらこの世界と生きている者の力になれるか? 放浪に出ることだ。…私は義務を果たしたと思う。ほら、もうその結果が現れはじめている。足元の土の声を聞きなさい。それを踏んでごらん語り部よ。なんと静かで堅固なことだろう。今ふたたび、私たちがその上を歩いていくのを感じて満足しているのだ」
世界のあらゆる場所で迫害され、遠い古代に故郷を失って流浪の民となった民族の末裔であるサウル。持って生まれた身体的特徴は、密林に住む部族であったら「穢れ」としてすぐにこの世から消されてしまう原因になるか、逆に「穢れ」と背中合わせの「聖」として特殊な価値を与えられるという刹那的な二者択一に晒されたであろうサウル。
物語の結末では、そんなサウルの「必然的」ともいえる運命が解き明かされる。
自然と共生する民族たちの知恵をもう一度取り戻そうというエコロジカルな意識だけでなく、もっと根源的な、人類に与えられた生き方といったものをこの物語は提起してくれる。
昨年10月、岩波文庫のラインナップに加わって、手に取りやすくなった本書。ぜひとも一読してほしい一冊だ。
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