**冬至間近の夕陽を受ける香取神宮。社殿の向きや装飾、摂社の配置などを観察すると秘められた記号が見えてくる**
2月に行なったkntモニターツアー以来、10ヶ月ぶりに東国三社を訪ねた。
茨城県の南部と千葉県北部にまたがる東国三社は、311の際に三陸沖に連続して起こった茨城県沖地震の直撃を受けた。これによって鹿島神宮の大鳥居が倒壊し、周辺の潮来や佐原の町でも建物が倒半壊した。
鹿島神宮の象徴でもあった西向きの参道入口の大鳥居が無くなってみると、武神タケミナカタを祀る社としての厳しさと威圧感が薄れ、境内の大部分を構成する広大な神域の森の精気が遮るものなく溢れ出し、以前よりも神秘的な雰囲気が増したように感じられる。
この大鳥居倒壊には古代の因縁ともとれる後日談が付く。
311から一ヶ月経った4月の上旬、海に面した鹿島神宮の東一の鳥居の近くに大きなお札が流れ着いているのが見つかった。長さ130cm、幅20cmあまりのその大きな板には「諏訪大明神祈祷神璽」と寸法いっぱいに大書されていた。
日本神話の「国譲り」のエピソードでは、鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチがアマテラスの命を受けて、天から出雲に降り立ち、栄える地上を天孫に譲るようにオオクニヌシに迫る。オオクニヌシは勝ち目がないとして、これに同意するが、オオクニヌシの次男であるタケミナカタが反対し、タケミカヅチとタケミナカタの戦いとなる。だが、タケミナカタは破れ、落ち延びて諏訪へと辿り着く。そして、諏訪に留まれば助命するというタケミカヅチの言葉に従って諏訪に留まることになる。
この国譲りの話を裏付ける証拠のように立っていたのが鹿島神宮の大鳥居で、鹿島神宮=タケミカヅチの威光を西の諏訪大社に向かって放っていた。放っていたというのは、比喩ではなくて、春分と秋分の日の朝日が鹿島神宮の本殿に差し、西を向いた大鳥居を潜って西へ直進していくという構造で、文字通りタケミカヅチの威光をタケミナカタの元まで正確に送る意図を持っていた。その大鳥居が見事にバッタリと倒れ、引き続いて諏訪大社のお札が鹿島神宮の東の浜に流れ着いたのは、天孫タケミカヅチに屈した出雲タケミナカタの復讐の宣戦布告のようにとれる。
日本列島土着の民族を朝鮮半島から渡来した民族が征服していく過程を綴ったのが日本神話とするなら、国津神の出雲は土着民族を象徴し、天津神の伊勢は征服民族を象徴する。乱暴な言い方をすれば、縄文以来の最終狩猟と小規模な栽培農業を営んできた土着民族を土地を改良して大規模に稲作を行う制服民族が日本列島から駆逐し、それを正当化するために、土着民族の神たちが恭順したとする物語が日本神話だ。
311によって現代文明の脆さや自然を自分たちのエゴのために破壊してきた人間の驕りがあからさまになり、自然と共生するライフスタイルや精神に本気で目が向けられはじめた今、自然信仰を色濃く残す出雲の神(土着=縄文の神と言ってもいい)が逆襲を開始したかのようなこの事件は、時代の転換点を物語るエポックといえるかもしれない。それが、ちょうどかつての東国と大和朝廷の勢力との拮抗点であり、311災害の南限にも符合するのは、妙なスピリチュアリズムなど信仰していなくても、何か心騒がせるものがある。
諏訪大社のお札が流れ着いたこの事件は地元ではちょっとした騒ぎになり、わざわざ鹿島神宮の神官が諏訪大社に返納に行くという一幕もあった。
**諏訪大社お札漂着のニュースを告げる茨城新聞WEB**
鹿島神宮と諏訪大社の関係については「レイラインハンティング」のサイトや拙著「レイラインハンター」に詳述したのでここでは深くは触れないが、こうした方位に基づいた他の聖地との関係を示唆する『秘められた符号』を再確認するのが、今回の東国三社訪問の目的だった。
鹿島神宮が冬至の日の入りが富士山と重なる位置にある(現在は冬至には少しずれる。鹿島神宮創建以前にここが聖地として成立したときには冬至の入日と富士山が重なっていたと推測される)のは有名だが、それを示唆するのは、上の図に示したように、西南西を向いた参道に建つ楼門と今は無くなってしまった大鳥居を結ぶ線が正確に富士山の方向を指している。
大鳥居は西を向いて諏訪大社(正確には、諏訪大社前宮のご神体山である守屋山)を指していたわけだが、同じ諏訪大社方向を本殿と楼門の位置関係にも見ることができる。
**上左・下:息栖神社本殿から楼門、参道方向は富士山方向を示す。上右:少し北に偏位する大鳥居は江戸城方向を指し示す**
国譲り神話でタケミカヅチが乗ってきたアメノトリフネをご神体とする息栖神社は、本殿と参道が正確に富士山を指している。さらに、参道の入口に建つ鳥居の先に少し北に偏って運河に面した鳥居が建つが、本殿からこの鳥居を見たその先には千葉県の印旛沼があり、さらに80km先の江戸城天守閣がある。この江戸城天守閣では鹿島と富士山を結ぶラインと交差する。参道が正確に富士山を指していることを考えると、北に偏差した大鳥居も偶然江戸城を向いたというよりは、意図的にこの方位を指す位置に置かれたと考えるほうが妥当だろう。
運河にある鳥居は比較的新しいもので、それ以前にあった鳥居も同じ位置にあったという話だが、それがいつ建てられたのかはわからない。太田道灌か江戸城を建てたときに合わせたものなのか、それとも江戸の風水を整備した天海僧正の指示によるものなのか、そのあたりの歴史がわかると、江戸城の風水装置が想像以上に大掛かりであったことの証明にもなるだろう。この鳥居の創建については、これからさらに調査していくつもりだ。
**夕陽を受ける鳳と反対側に彫られた凰**
**鳳と向かい合わせにあるイワツツオ、イワツツヒメを祀る祖霊社。社の参道がそのまま富士山の方向を示す**
東国三社を構成するもう一つの神社「香取神宮」。ここもレイラインハンティングで紹介した三社の相関関係以外に、富士山を示唆する記号が隠されている。
本殿正面は南からやや東向きに偏差した方向を向くが、社殿全体を見ると東西に向いた長軸が富士山を指し示す方角に向けられていることがわかる。
入母屋造りの本殿の軒には鳳凰が描かれている。もともと鳳凰は「鳳」と「凰」の雌雄一対の瑞鳥だが、この軒の鳳凰は富士山を向いた側が鳳で反対が凰になっている。香取神宮から見て富士山は冬至の入日の方向に当たるから雄の鳳は冬至の再生を願う意味が込められているともとれる。反対の方角は夏至の日の出の方角に当たり、アマテラスを象徴する夏至の陽をメスの凰が受け取るという、これも象徴的な構図となっている。
また冬至の入日の方向には祖神であるイワツツオ、イワツツヒメを祀る社があって鳳と向き合っている。境内摂社に富士山の女神であるコノサナサクヤを祀る社があるのも、富士山をかなり意識していることを示唆している。
ほとんどの神社仏閣にはこうした方位を示す暗号が隠されている。それが日本神話のエピソードに符合していたり、あるいは史実に登場する怨霊を封じ込める意味があったり、あるいは風水と結びついた都市計画の一端を示していたりする。
東国三社には、細部を見ていけばまだまだ面白い記号が隠されているのだが、それはまた機会を見て紹介しよう。
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