薪能というものを初めて観たのは30年前、20歳の夏だった。
地図も持たずにオートバイで旅に出て、辿り着いた平泉の中尊寺。夕闇が迫る境内に篝火が燃えていて、何が始まるのかと立ち止まっていると、唐突に甲高い風音のような笛の音が響きわたり、白い翁のような面を着けた仕手が舞いはじめた。
能についての知識など何もなかったが、その場の雰囲気に釘付けにされ、息を飲んで、その舞台を眺め続けた。
いつの間にかとっぷりと陽が暮れ、篝火が照らし出す能舞台と巨大な御神木の影が揺らめいている。囃子方が奏でる音と謡いが森を吹き抜ける風と混じり合い、音が形作る「場」が無限に拡大していくように感じられる。そのうち、篝火によって映し出される舞台の輪郭も定かではなくなって、広大な森そのものが舞台に思えてくる。
ずっと後になってから、能舞台の背景に描かれた松が「影向の松(ようごうのまつ)」と呼ばれ、そこには神が降臨し、宇宙的な広がりを観客に味わわせるものとされていることを知ったが、中尊寺では取り巻く御神木に、確かに神が降臨し、宇宙に浮かぶ銀河のように能の世界がそこで永遠に回転する渦となっているように思えた。そして、自分もただの傍観者ではなく、その渦の中心にいて、能世界を体験する主役になっていた。
あれは本当に不思議な晩だった。
気がつけば、舞台は終演し、ぼくは元の中尊寺の境内に戻っていた。
その晩は毛越寺の宿坊に泊まった。
翌日、表に出ると、そこに広がる光景に、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなってしまった。良く刈り込まれた芝生の丘が艶かしい曲線を描き、その間を清流がゆっくりと流れている。その水面には青い空と夏雲が映り、まるで、切り取られた空の断片が流れているように見える。そして、岸辺に設えられた方丈ほどの緋毛氈と古風な日避けが完璧な彩りを作り出している。思わず、「雅だなあ…」なんて、二十歳の男が口にしないような言葉をつぶやいていた。
当時は、平泉についての知識といえば、高校の教科書で読んだ程度しかなく、格別、歴史にも興味がなかったので、素通りするつもりだったのだが、中尊寺の薪能と毛越寺の雅な庭園にすっかり魅了され、毛越寺の宿坊を拠点にして一週間あまり滞在してしまった。
金色堂は藤原三代の栄華を有無を言わさず見せつける迫力があるが、それが例えば秀吉の金の茶室のようないかにも成金趣味といったものではなく、周囲の苔生した庭とのコントラストによって和らげられた華美が、不思議な上品さを醸し出している。街も、抑えた雅さといったようなものに包まれ、どことなくエキゾチックに感じる。
平泉の平野を一望する高台には義経堂がある。才能に溢れすぎた若者の悲劇と彼を支えた純粋な武者たちの生き様が伝えられているこの小さな堂の傍に立って景色を眺めると、広野を駿馬が駆け巡る様が蘇ってくるようだ。
地元では、いまだにここで果てた義経は影武者で、本物は主従とともに北へ向かったと、当たり前の史実のように語られる。
そんな義経北行伝説も、平泉独特のエキゾチックな雰囲気の中にいると、ここが日本というよりは、北へ向かって大陸と繋がった独立王国で、義経たちは同じ領土の中を北へ退避しただけではないかと思えてくる。
東北は、大和朝廷の歴史観によって、文化果てる土地としてずっと虐げられてきた。それが三内丸山遺跡の発掘によって、縄文時代の長い期間に渡って、独自の北方文化の中心地として栄えていたことが証明された。
平泉は東北独自の文化を縄文から受け継いだ中世の中心地だった。
そんな平泉が世界遺産に登録されることになった。3.11で心身ともに大きな痛手を受けた東北にとっては、心和む朗報だ。これがただ観光客誘致の起爆剤となるだけでなく、三内丸山が「東北学」の発展の起爆剤になったように、まだまだ謎とロマンの宝庫である東北の研究が盛んになるキッカケとなって欲しい。
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