半世紀…この世に生を受けてから、そんなに経ってしまった。
東京オリンピックは白黒テレビの映像で微かな記憶がある。同じテレビで、鉄腕アトムや名犬ラッシーを食い入るように観た。
まだ風呂は薪焚きで、井戸は手押しポンプだった。田舎では幹線道路も未舗装で、ウインカーの代わりにオレンジの羽根がぴょこんと飛び出すボンネットバスや三輪トラックが砂煙を立てて通り過ぎて行った。
戦後直ぐに工兵隊にいた祖父が自分で建てた平屋の生家には、庭先に巨峰が実る葡萄棚があって、夏はその涼しい葉陰に筵を敷いて昼寝をするのが格別気持ち良かった。
テレビがカラーになったのはメキシコオリンピックの頃だった。同じ頃、アポロの月着陸を学校の講堂でみんなが息を呑んで見守った。
カラーテレビで特に印象に残っているのは、ベトナム戦争の生々しいシーンや、安保闘争とその後に続いた極左のテロや内ゲバの様子だった。
小学校も高学年に差し掛かってくる頃、蛇口をひねれば出てくる水道になり、台所は土間から床続きになった。風呂は薪から石油になって、手間のかかる風呂焚きの儀式がなくなった。
100坪ほどの庭の半分は祖母が耕した畑で、小学生のぼくも鍬を持って野菜作りを手伝ったが、当時は野菜嫌いで祖母と一緒に作った野菜はほとんど口にしなかった。
畑の横には鶏小屋があって、毎朝、卵を取りに行くのだが、襲いかかってくる鶏が恐ろしかった。時々、小屋の下の地面が掘られ、鶏が食われてしまった。祖母は猫の仕業だと言ったが、鶏の羽根が散らばり、点々と血の跡が残る小屋の惨状は、ぼくには恐ろしい怪獣の仕業に思えた。
大阪万博の頃、自宅に電話が入った。それまでは近所の雑貨屋さんの電話が集落の共同電話のように使われていて、電話が掛かってくると雑貨屋のおばさんが知らせにきた。
そんな、小学校を終えるあたりまでの記憶はとても鮮明で、味や香りや肌触り、温度、そしてその時の自分の心境をともなって思い出すことができる。
だが、その後は、どんどん時の経つスピードが加速してゆき、思い出を辿ってみても何故か実感が薄く、映画のワンシーンと変りなく思えてしまう。
ヴァカバット・ギータのある一節では、肉親が敵味方に分かれて戦うことになってしまった王子の苦悩の様子が描かれている。戦場で父親の軍勢と馬車に乗って向かい合った王子は、親に弓を引く非道を行っていいものか、そもそもどうして骨肉相争うこんな状況に陥ってしまったのかとくよくよ悩んでいる。王子が乗る馬車の御者はじつは神なのだが、この神は、王子に対して、全ては運命が導いたことであり、今自分が成すべきことをしなければならないだけなのだと説く。その言葉に王子は頷き、父親を討ち取ることを決意する。
そんな具体的な描写の後で、そのシーンは敵である父親方の占い師が透視して父王に伝えていた情景だったとされる。
楽しいこと、辛いこと、苦しいこと、切ないこと、感動したこと…それらは、今になって懐かしく思い出す子供時代よりも、その後のほうが遥かに多いはずなのだが、どこか自分の人生に起こったことという実感に乏しく、水晶玉に映し出された光景を冷めた気分で見つめているような気がしてしまう。
誰の言葉だったか忘れたが、人生は山登りのようなものだという。頂上に近づくに従って展望が開け、麓がよく見渡せるようになる。人生もそれと同じで、頂上に近づけば、直前までの苦しさを忘れて、開けた麓を眺めて爽快な気分になる…そんなものなのかもしれない。
だが、家族が結束し、温かいコミュニティが家族を取り巻き、物質的には豊かではなかったけれど、みんなが未来のことを考えていた時代…あの時代の雰囲気は、やはり大切だったと思う。それは、いくら情報網が発達しても、社会的なリソースとしての情報が増えても、ソーシャルメディアが人と人の繋がりを拡げていっても、同じものを得ることはできない。
この年末年始に、一人で部屋に閉じこもって読書と思索に耽り、断食をした。
外部との接触を断って黙考してみると、歳をとって「昔は良かった」といったありきたりの感傷に囚われているだけではない何かが、あの頃にはあったという気がますます強くなった。
再三このコラムでも書いたように、ついに亡くなった父の歳に追いつき、追い越すことになった。父の50歳と自分の50歳を比べると、自分は明らかに未熟な子どもであり、責任感に欠けている。そして、安定感もない。父もこの世に悔いを残して死んだが、今ぼくが死ねば、ぼくは父より遥かに大きな悔いを残すことになるだろう。
昔と同じ生活、昔と同じような社会を取り戻すことはもちろんできない。だけれど、人が人から阻害され、生きる希望がなく、虚しさと憎しみだけが蔓延していくような今の社会が希望と安定感を取り戻すためには、それがあった時代を知るぼくたちの世代が、それを思い出し、今の生活に活かしていくことが必要ではないかと思う。
そして、あらためて自分の人生をしっかり生きているという実感を取り戻したいと思う。
>xaviaさん
コメントありがとうございます。
思い返すと、時代が遠く隔たってしまった気がしますね。
50歳を迎えて、いよいよ人生のカウントダウンに入ったという気がします。
お互いに、残された時間を有意義に生きてゆきましょう!
投稿情報: uchida | 2011/01/18 09:45
白黒テレビに五右衛門風呂、井戸水の冷たさ。
未舗装道路に三輪トラック。
庭先で作る野菜。
ああ、懐かしいな。
自分も亡くなった父の年に近づいてきました。
鮮やかに甦る過去の記憶と、陽炎のように妙に
実感のないここ数年の記憶。
人生をしっかり生きている実感が薄かったかも
知れません。
今日のブログを拝見して、「今」自分に出来る
事を考えるための「命」の滴を戴いたように感
じています。
お礼を伝えたくて、コメントしました。
ありがとうございました。
投稿情報: xavia | 2011/01/16 19:18