……レイラインハンティング 日本編 vol.1 より一部抜粋……
第一章 【東北 巨石文化とアラハバキ信仰】
東北における巨石信仰の源流とは何だろう。
縄文から続く原始信仰が蝦夷に伝わり、蝦夷は民族神としてアラハバキを信仰した。アラハバキ神は巨石に降臨する。鉱山の神、 産鉄神でもあり、それは後に出雲の信仰にも通じていく。ストーンサークルや大石神ピラミッドに見られる巨石遺構などは、 そんなアラハバキ信仰の源流ともいえるだろう。
アラハバキ神が巨石に降り立つイメージは、そのまま神道にも取り入れられて今に続いている。神が降り立つ特別な岩、それを神道では 「磐座(いわくら)」と呼び、磐座そのものが御神体とされているケースも多い。
ゲーテは、地質に関する様々な論考を残しているが、とくに花崗岩を特別な存在と考えていた。それは、地球の創生の記憶を内に秘め、 宇宙へ向かって地球の意思を放出する一種の記憶装置で、花崗岩の上に人が位置したとき、その内部に秘められた「地球の記憶」 をリーディングできるのだという。そして、この北東北で生まれ育った宮沢賢治も、しばしば静かな月夜の晩に花崗岩盤の山に登り瞑想し、 そこで神から啓示を受けたような瞬間を体験した。賢治の代表的な絵画作品に「日輪と山」があるが、 あの宇宙へ向かって大地が食指を伸ばして宇宙の象徴たる太陽を捕らえようとしているかに見える光景は、 磐座の上で得たインスピレーションを表したものだったかもしれない。
巨石遺構に使用されている岩はほとんどが花崗岩であり、元々花崗岩の岩盤の場所で、その露頭に手が加えられていることも多い。 花崗岩の中に含まれる石英(水晶)は、外部から衝撃や圧力が加わった際に、その力を特定の周波数の振動に変換する。 時計で用いられる水晶(クオーツ)発振はその特性を利用したものだが、花崗岩を用いた巨石遺構では、 特定の日の太陽の光が集中されることによってそれが一定の周波数の振動を生み出す。そして、 配置された巨石全体に共鳴を起こして電磁波や重力の変化を誘導する。それが、大地に眠る力を汲み出し、 あるいはそこにいる人間の意識を変性させる。そのようにも推測できる。
エジプトのピラミッドやストーンヘンジが、何故、わざわざ遠く離れた山から岩を切り出してきて、 それを砂漠や草原の真中に積み上げなければならなかったのか……それも花崗岩のそんな性質を考えれば納得できる。
元々、地霊の沸き立つ「聖地」に花崗岩を据え付けることで、より強く鮮明に地霊の雰囲気を感じることができるようになる…… 巨石遺構は、そのような「装置」ではなかったのか。
ところで、再び大湯ストーンサークルの万座に立ち戻って、万座-黒又山-上大石神ピラミッドラインを見直してみよう。 方位角50度を示すこのラインを万座ストーンサークルの西側に立って、その中心にある立石と黒又山の頂上が並ぶように仰ぎ見る。 するとその先、遙か彼方にかすんだ山並みが描くスカイラインが重なっているのがわかる。このスカイラインの一角が、 まさに上大石神ピラミッドなのだ。これは、この仰角のついた直線の先に位置する星座を指すのではないだろうか。
エジプトのギザピラミッド群を研究したグラハム・ハンコックは、 ピラミッド群の配置が紀元前1万500年前のオリオン座の形を映すもので、 そのときの春分の日の夜明けにオリオン座が正確に南中することを確かめた。同様に、黒又山とこれを軸にしたレイラインは、 ある時代の特定の星座を指し示しているのかもしれない。
●坂上田村麻呂の呪い●
三内丸山の文明は気候変化などによってその後衰退するが、三内丸山を築いた縄文人たちの末裔である蝦夷は今の北関東から東北、 北海道全域に渡って分布し、独立した立場を保っていた。
8世紀、西から勢力を伸張してきた大和朝廷が「東国」支配を目論んで蝦夷の天地に侵攻を開始する。ところが、蝦夷の抵抗は激しく、 送り込まれた朝廷の軍勢はことごとく敗走することになる。
そのまま、三内丸山から延々と続いてきた蝦夷の平和が続くかに見えた……。
9世紀、朝廷は最後の切り札として、武運の誉れ高い坂上田村麻呂を起用する。そして、長年抵抗を続けてきた蝦夷は、 あまりにもあっけなく、田村麻呂の前に平定されてしまう。
田村麻呂を征夷大将軍として起用したのは桓武天皇だった。桓武は平安京遷都に当たって風水や陰陽道を駆使し、 自らが死に追いやった実弟の早良親王の怨霊を封じたことでも知られるが、唐様の習俗や文化を積極的に取り入れて呪術政治を行った。 その桓武天皇の腹心であった田村麻呂は、当然、陰陽道にも精通していた。 ただし武人である彼は恒武のように徹底した陰陽師であったわけではなく、 実際的な力である武力と霊的あるいは心理的な力といえる陰陽道とをうまく使い分ける巧みな戦略家だった。
三内丸山の縄文精神を受け継ぐ蝦夷たちは人間と土地との結びつきを重要視していた。限りない恵みを与えてくれる大地に感謝し、 その大地と対話できる場所を聖地として祭っていた蝦夷たち。その蝦夷の聖地に楔を打ち込んで、 これを機能させなくすることでまず精神的なダメージを与え、 それで骨抜きになった蝦夷に対して武力攻撃で止めを刺すのが田村麻呂の戦略だった。
オーストラリアのアボリジナルは、聖地を結んで全土に網の目のように広がる「ソングライン」 という精神的ネットワークをイメージしていた。聖地と聖地を結ぶ一本のラインには、それぞれ固有の歌があてはまる。 歌にはライン上の地形や土地の資源などが織り込まれていて、初めて訪ねた土地でも、その歌さえ知っていれば、無事に旅を続けられた。 このソングラインが道路や鉄道の建設によって寸断されてしまうと、聖地は力を失い、土地そのものが死んでしまう。アボリジナルは、 長年受け継がれてきた精神遺産であるソングラインをずたずたにされて、まさに生きる屍となってしまった。
アボリジナルと同様に、蝦夷たちも聖地を結ぶネットワークを持っていた。それが、三内丸山をハブとするレイラインであり、 大湯-黒又山-上大石神ラインだったのだろう。蝦夷が東北に築き上げたソングライン同様のネットワークがうまく機能していれば、 大地は健康であり、大地と不可分である自分たちも健康であり続けられる。蝦夷は、そんな風に考えていたのかもしれない。
田村麻呂はそんな蝦夷の精神世界を逆手に取った。
今回の旅は、三内丸山遺跡を起点に大規模なスートンサークルを繋いで南西に大湯ストーンサークルまで辿り、大湯から北東へ黒又山、 上大石神ピラミッドを結ぶラインを辿った。さらに、上大石神から三内丸山へラインを引いてみる。上大石神と三内丸山を結ぶライン上には、 今のところ、顕著な遺跡や「聖地」は認められないが、三内丸山、大湯、上大石神を結ぶ三角形を見ると面白いことに気づく。 この北東北に絵かがれる三角形の内側に、その面積の大部分を占める形で、十和田湖がすっぽり収まっているのだ。
強大な水神が眠る湖として太古から信仰の対象とされてきた十和田湖は、巨石遺構を結ぶレイラインに囲まれると同時に、 岸辺にも巨石遺構が残っている。風水や陰陽道では、幾筋もの龍脈を流れてきた気が龍穴というポイントで集中する。 龍穴は池や湖であることが多いが、それは水が「気」を溜めてさらに増幅するコンデンサの役割を果たすとされるからだ。そして龍穴に溜まった 「気」は、龍=水神に象徴される。当然、太古の巨石信仰を受け継ぐ蝦夷にとって十和田湖はこの上ない聖地であった。
その十和田湖の中に突き出た中山半島。その根本に十和田神社がある。
巨木が立ち並ぶ暗い森の中に一筋の径がつけられている。両側は一見、自然の崖のようだが、 よく見るとむき出しの溶岩の岩盤に混じって、長い年月の間に木の根がからまって覆い隠された石垣が見える。それは、 かつてここにあった巨石遺構の痕跡だ。さらに両側から崖が迫った切り通しを抜けて行くと、 周囲の自然にどことなくそぐわない厳しい雰囲気の社が現れる。
この神社は、坂上田村麻呂によって創建された。坂上田村麻呂が東国に創建した神社は数多いが、 十和田神社はその中でもっとも蝦夷の勢力の奥深くに食い込んだ場所に位置している。しかもここは蝦夷にとっては、強大な「気」 が集中する巨大龍穴であり、最重要ともいえる聖地だった。坂上田村麻呂は、まさに蝦夷の聖域中の聖域に楔を打ち込んだのだ。
坂上田村麻呂が朝廷から東征の任を受ける前、この地を本拠とする蝦夷は、 アテルイというアラハバキ神を奉じるシャーマニスティックな指導者に率いられ、強大な勢力を誇っていた。坂上田村麻呂の前任者たちは、 ひたすら朝廷の強大な武力に頼り、力でアテルイ軍をねじ伏せようとした。ところが、数の上では半分以下、 ときには十分の一以下のアテルイ軍にことごとく敗退させられてしまう。そして、桓武天皇によって、 最後の切り札ともいえる坂上田村麻呂が派遣される。
坂上田村麻呂はただちに武力攻撃でアテルイ軍を攻略せよという朝廷の命令を当初無視して、まったく異なる方法をとる。それが、 蝦夷最大の聖地に対する霊的攻撃ともいえる十和田神社の創建だった。
大湯ストーンサークルから十和田神社は方位角22度45分の方向になる。このラインを十和田神社を超えてそのまま伸ばしていくと、 下北半島のつけ根で「石文」という地名の場所に行き当たる。ここでは「日本中央の碑」が出土している。
「日本中央の碑」は「壺の碑(つぼのいしぶみ)」として古くから和歌に詠まれてきたもので、 長く伝説上の架空の存在であると信じられてきた。平安時代の歌学書『袖中抄』には以下のように記されている。 「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、 石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申しは、石面ながさ四五丈計なるに文をゑり付けたり。 其所をつぼと云也」。坂上田村麻呂が東国征伐の際に弓の端で「日本中央」と刻んだ石文を置いた。 その場所は蝦夷地奥のつぼであったという記述だ。
石文とは、今でも北東北に残る風習で、小石あるいは大型の置石に自分の意志や願いを込め、それを神殿や道祖神、 あるいは祭壇に当たる場所に置くというものだ。坂上田村麻呂がこの場所まで進軍したという記録はないが、 坂上田村麻呂に代わる者がこの石を置いたとすれば、ここに記された「日本中央」の文字は、「日本中央=朝廷がこの地の支配者である」 というメッセージであり、蝦夷の聖地に対する呪いであっただろう。
長い間、壺の碑は、千人の人間が引いて東北町にある千曳神社の地下に埋めたとされ、明治9年に明治天皇が北東北を巡幸した際に、 千曳神社の境内の発掘を命じたが、結局、発見されなかった。
昭和24年、千曳神社から東へ4㎞あまり隔たった東北町石文地区の山林内を歩いていた猟師が、 地面から突き出した不思議な立石を発見する。それを掘り起こしてみると、石の表面に「日本中央」の文字が刻み込まれていた。これが今に残る 「日本中央の碑」だ。ただ、この石碑は刻まれた文字が稚拙で、仮に伝説が伝えるように弓の端で刻んだにしてもまだお粗末なものに見える。 そんなこともあって、いまだにまともな研究対象にはされていない。
この石碑の真贋はともかく、 出土したとされる場所も伝説の残る千曳神社の場所も大湯と十和田湖という蝦夷の一大聖地を結んだライン上にあるという点に注目したい。
坂上田村麻呂は、まずは北東北の聖地の中でももっとも重要だった十和田湖に十和田神社という楔を打ち込んだ。 さらに蝦夷の領域の奥深く、十和田神社とも関係するラインの末端に「日本中央碑」という楔を打ち込んだ。これによって、 蝦夷のソングラインともいうべき聖地ネットワークが寸断されてしまった……。
それまで威勢を駆って都にまで攻め入ろうというほどだったアテルイ軍は、坂上田村麻呂が率いる軍勢に対して、突然劣勢となり、 各地で敗退し、ついには総崩れとなってしまう。そして、首領のアテルイは坂上田村麻呂に捕らえられ、都に送られて打ち首となる。
坂上田村麻呂以前の征夷大将軍たちがことごとくアテルイ軍に敗れ去ったのに、坂上田村麻呂軍は、 戦端を開いた途端にアテルイ軍を圧倒し、鮮やかに殲滅してしまう。その背景には、アテルイ軍の士気を阻喪させる心霊戦…… 心理戦の効果があった。陰陽道にも長けていた坂上田村麻呂の戦略に蝦夷は屈したといえるのではないだろうか。
だが、広い東北の地に広がる蝦夷が、坂上田村麻呂一代によって完全に殲滅され、朝廷色に塗りつぶされたわけではなかった。
時を置いて、蝦夷は復活してくる。中世には、それが藤原王朝として平泉に花開いた。
今でも東北を旅していると、土地の持つプリミティブな力=地霊の強さをはっきりと意識する。 坂上田村麻呂はある部分では蝦夷の地霊を支配し、改変してアテルイに勝利したが、 広大な東北地方全域まで地霊をコントロールすることは不可能だった。
蝦夷のしたたかさは、太古から縄文そして中世へと脈々と受け継がれてきた巨石信仰=アラハバキ信仰に由来するのかもしれない。 巨石信仰と結びつくアラハバキは天空神であり漂泊神である。天の力と大地の力の両方に通じた神であり、巨石遺構の場所に降臨し、 レイラインを伝わって移動していく。そして、アテルイにアラハバキが憑依して絶大な指導力と運を手にしたように、 ある瞬間にその場にいる人間にとてつもない力をもたらす。たしかに坂上田村麻呂によって一つの重要なレイラインは封じられたが、 北東北の巨石信仰レイラインのチャンネルはそれだけではなかった。
中世東北にキラ星のように出現した藤原王朝もまたアラハバキを奉じていた。藤原王朝の基盤は、 後に津波で壊滅することになる十三湊を軸にした大陸との交易と、金の採掘だった。それが朝廷をも凌駕する巨万の富をもたらした。
竹内文書と同様、これも典型的な偽史にあげられる「外東日流外三郡誌」がある。そこには、古代、 津軽に朝廷を凌駕する東北王国があり、それもまたアラハバキ神を奉じ、十三湊を本拠としていたとされた。内容を全て信じることはできないが、 十三湊の繁栄やアラハバキ信仰の実体など、無視できない部分も多い。
大石神ピラミッドと三内丸山を結ぶレイラインをそのまま北西へ伸ばしていくと、まさに「外東日流外三郡誌」 に登場する聖地や大規模な巨石遺構がそこに並んでいるのが見て取れる。これは、坂上田村麻呂が封じたレイラインのまだその先に、 もしかしたら大陸につながっていく、さらに強力なレイラインが存在し、 それが後の藤原王朝の繁栄をもたらしたことを物語っているのではないだろうか。
ところで、その藤原王朝も信じがたい栄華を極め、強大な軍事力を誇りながら、鎌倉幕府によってあっけなく滅亡させられてしまう。 それは、坂上田村麻呂によって滅亡させられたアテルイの最後に驚くほど似ている。
押し寄せた潮が一気に引くように、忽然と姿をくらましてしまうかのように見える蝦夷。じつは、 彼らにとって北東北は自らの文明の中心ではなく、南に伸びた前衛の一部で、その本拠は遠く大陸に存在するのかもしれない。だとしたら、 世界のほかの地域の巨石文明ともその先で繋がっていたに違いない。
コメント