印象に残っている登山家はと聞かれて、今ならさしずめ深田久弥=日本百名山となるのだろうが、 ぼくがバリバリ山に登っていた20代の頃は、百名山ブームなどなく、山は無知な中高年たちの「百名山マニュアル」消化の舞台でもなく、 まだまだ若者のチャレンジの場だった。
そんな70年代から80年代にかけては、GORE-TEXを始めとした道具の革新の時代であり、 それに支えられた登山じたいの革新の時代だった。
最近届いた「ナショナルジオグラフィック」誌をめくっていたら、そんな時代のスーパースター、ラインホルト・ メスナーの記事があった。
当時、「絶対に不可能」と言われた8000m無酸素登頂を人類として初めて成し遂げ、その後、次々に8000mを落として、 ついには14座すべてを無酸素で登ってしまった。
当時は、8000m峰を登るには、アムンゼンやスコットといった極地探検家が採用した「ポーラシステム」 によるアタックしかないと言われていた。それは、人的資源も含めた物量を投入して、 ベースキャンプから徐々にルートとキャンプを延ばしていって、最期に厳選されたアタックメンバーだけが登頂するために、 他のメンバーはサポートに回るというものだった。
ところが、メスナーが採用したのは、ヨーロッパアルプスを登るのと同様に、 少数のあるいは単独で麓から頂上まで一気にアタックをかけるアルパインスタイルで、それをヒマラヤの高峰に用いることなど「あり得ない」 とされていたものだった。
当時は、常識を打ち破る出来事とそれを実践する人間たちが大勢いて、とにかくエキサイティングな時代だった。
日本でも、きら星のごとく、世界的なアルピニスト、クライマーが輝いていた。植村直巳、加藤保男、長谷川恒夫、今野一義……だが、 彼らは、みな山に消えてしまった。メスナーの本当に凄いところは、じつは「今生きてある」ということなのかもしれない。
しかし、今ぼくは45歳だが、先に挙げたきら星たちの享年をすでに追い越してしまった。当時の20代のぼくの目からは、 偉業を成し遂げた人生を生きて、最期の瞬間に彼らは悔いはなかっただろうと思ったが、今にして思えば、彼らは、 逝くにはまだあまりにも若すぎた……。
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