今日は朝から夕暮れまで、練馬区にある光が丘公園で過ごした。
TBSの「はなまるマーケット」という番組でツリーイングを紹介してくれることになり、そのエキストラとしてツリーイング仲間とケヤキの大木に登って、いろいろ注文に答えていた。
師走とは思えない穏やかな一日で、冬枯れですっかり葉を落とした木々の間からずっと柔らかい陽の光が注いでいる。あまりに気持ちよくて、取材であることを忘れて、枝に渡したツリーモックの上でついウトウトしてしまう。
ぼくたちが登っていたケヤキの近くにはイチョウの大木があって、地上に降りると、その枯れ葉が絨毯のように地面を覆っていて、下からも陽が射しているようだった。
イチョウの葉の絨毯を踏みしめる感覚は独特で、はじめは薄氷を割ったようなサクッとした感触で、次にふわりと足裏を優しく受け止める。この感覚は、同じようにイチョウの葉の絨毯を踏みしめた記憶を鮮明に呼び覚ます。
ぼくが通っていた高校は茨城県で二番目に古い学校で、校門を潜ると長いイチョウ並木があった。正面の校舎はコンクリートの三階建てだったが、イチョウ並木がつきた片隅にあった図書館は明治の木造建築で、降り積もったイチョウの葉に囲まれると、どこか北欧あたりの古い街の片隅のように思えた。高校1年の晩秋、終結したばかりのベトナム戦争の経緯が知りたくて、放課後はこの図書館に篭って石川文洋や小田実を読み、沢田教一の写真を見て、戦争の悲惨を実感してみようとしたりしていた。
時代が飛んで90年代の後半、神宮前のアパートの一室を編集者の友人と事務所としてシェアしていたが、ここは神宮外苑が近く、原稿に行き詰まったりするとよくイチョウ並木を散歩した。
あるとき、人間関係に酷く悩んで、そのイチョウ並木のベンチに腰掛けて、一晩中考え込んでいたことがあった。やはりちょうど今時分、落葉が盛りで、じっと頭を垂れたまま落ち葉が降り積もっていく音を聴いていた。朝を迎える頃には、頭の中はイチョウの葉が地面に降り積む音で満たされて、つまらない悩みを考える隙間はなくなっていた。
今年のイチョウの絨毯の感触は心地良くはあっても、どうしても311の悲惨を思い出さずにはいられない。津波で命を奪われた人たち、命は助かっても暮らしの再建の目処が立たず、また寒い季節を迎えようとしている人たち、そして、この心地いい感触の絨毯に紛れ込んだ放射能の不気味さ…。
後年、今日のこのイチョウの絨毯の感触をどんなふうに思い出すだろう。
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