本来は9月中に取材を済ませて、すでに写真と文章を入稿していなければならないのだが、今年は取材予定の8月、9月があまりに暑すぎ、出掛けてもまともな取材はできないので、今になって予定を消化している。
毎年、春に新年度版を発行している昭文社の旅の情報地図『ツーリングマップル』。その中部北陸版の実走取材担当となってからちょうど10年が経つが、今年の夏は極めつきに異常だった。
沸き立つ陽炎に風景が溶けてしまうような中をオートバイで走るのは、不快なだけでなく、危険極まりない。昔、デザートレースに出ていた時も、灼熱のタクラマカンを走った時も、今年の日本の夏のように、走っていて朦朧としたことなどなかった。
真夏日が70日を越え、夏日も3ヶ月となっては、日本はもはやオートバイツーリングに適した国とは言えない。オートバイの売り上げがピークの十分の一に落ち込むのも仕方がないだろうと思ってしまう。
それはともかく、今年は編集に無理を言って、大幅に取材予定をずらしてもらって正解だった。
ようやく涼しくなって、じっくりと風景を愛でながら旅ができるようになり、好奇心の赴くままに、気になるものを見つければ立ち止まって、その場の雰囲気をじっくり味わえるようになった。
昔から、ツーリングでも登山でも、ほとんどはソロだった。一対一で、自分の感性に響く風景と向き合うのが好きだった。
北アルプスの頂きからの壮大な風景も、天空を埋め尽くす砂漠の星空も、そして、山の中にひっそり佇む仏と対面するのも、人と一対一で腹蔵無く話をするのと同じように、一人で向き合うと、風景がはっきりと語りかけてくれる気がした。ウォールデンの辺でソローが自然と向き合って暮らしたように、ぼくにとって、山行や旅はただ無心になって風景と対話するのが目的だった。それは今でも変わっていない。
昔と変わったことといえば、昔は、行き当たりばったりに旅をすることが多かったのにたいして、今は、拙著『レイラインハンター』にも記したように、土地に導かれるように旅をすることが多くなったことだろうか。
ある禅林を訪ねた。
そこは、尾根筋を走る県道から、車の入れない細い九十九折の参道を降りて行った先の谷筋に、隠れるように佇んでいる。
鬱蒼とした混成林は昼でも暗く、道筋の途中には一里塚のように石仏が置かれ、まるで監視装置のように参道を通る者を睨んでいる。
参道の入口の「禅林の静寂を乱す者は入場を禁ずる」というきっぱりとした門書といい、不気味な参道といい、その先に禅的な楽園とでも言えそうな簡素だけれども明るく爽やかな宇宙があるとはまったく想像させない。だからこそ、初めて訪れて、黄泉の国へと向かうような叢林のトンネルを恐る恐る越えて行った者を一層感動させる。
広い谷間に出て、まず目に飛び込んでくるのは、青空を映す広い池と、そこに掛けられた天蓋を持つ優美な太鼓橋。
さらに進んで行くと、池へ清流が滝となって注ぐ岩山と、その上にある茅葺き屋根を乗せた小さな堂。そして、太鼓橋を渡った先にある立派な茅葺きの僧堂がある。禅林らしく、華美な装飾は一切無く、ただ古寂びた木肌と茅、水と岩、そして取り巻く緑の色彩があるだけで、人声もせず、傍らを流れるせせらぎと、参道の端にある竹林を風が撫でる音だけが響いている。
この谷間に出たとき、ふと、玄奘三蔵が西域を行く途中で、山中に佇む寺に出くわしたときも、同じような感動を味わったのではないかという気がした。玄奘の前に求道の旅に出た法顕が「屍を道標となす」と表現した灼熱のタクラマカンを逃げ水やオアシスの幻影に惑わされつつ進み、ようやく小さいながら緑潤う仏教都市に巡りあったとき、玄奘はそこが浄土だと感じたのではないだろうか。
その先に何があるかまったく想像できないまま、完成された宇宙に不意に飛び込んで、ただただ息を飲む…この感動があるからこそ、旅に魅せられた人間は旅を止めることができないのではないか。
「心象風景」という言葉があるが、単に心に深く刻まれる風景というだけでなく、対面した風景に心が捕らえられてしまい、それが心の形を変えてしまうということがある。風景によって有様が変化した心、それは「風景心象」とでも言えばいいだろうか。
この禅林の風景に向き合って、ぼくは、自分が旅に求めているのは風景心象なのだとはっきり思い知らされた。
ところで、この禅林がある谷間と山を一つ隔てたところにはルルドの聖母を祀るカソリックの修道院がある。
ステンドグラスを通した秋の日差しが聖堂の内部を柔らかく浮かび上がらるこの修道院の静謐な雰囲気も、禅林と同様にこの土地のゲニウス・ロキをうまく反映している。禅林の存在を知らず、この修道院だけ訪れれば、それは深い心象を残すだろう。だが、禅林の虚飾を剥ぎ取った透明な雰囲気に浸った後では、様々な具象的な絵画や偶像が、美しくはあるが、妙に生々しくかつ余所余所しく、微妙に居心地悪く思える。
この禅林と修道院の印象の違いは、自分のコアを成す風景心象によるものかもしれない。長いシルクロードを経てきた末に、文化や思想が夾雑物を抜き取られ、装飾を剥ぎ取られ、純化されて、ぎりぎりのところまで自然そのままに肉薄した日本文化。それが日本人である自分のいちばん根本的な風景心象となっている。そんなことを自覚させてくれるのも風景なのだ。
>ゆめさん
コメントありがとうございます。
先週末から先ほどまで、高松に滞在してました。
瀬戸内国際芸術祭のイベントでレイラインのトークライブを開かせていただきました。
あちらは、昼間は夏日でTシャツでした。
ちょうど、まともな夏を取り戻したような気分で気持よかったのですが、この気候もかなり異常ですから、この先が心配ですね。
この記事は、多治見のほうにある禅林のことですが、ほんとに絵に描いたような不思議な空間でした。
私の気に入りの場所に追加しました。
投稿情報: uchida | 2010/10/18 19:10
10月も中旬というのに今日は半袖で過ごせました。
やはり今年は少し変な天候です。
「禅林の静寂を乱す者は入場を禁ずる」読みながら思わず背筋がしゃんとしてしまいました。
清流が滝となって注ぐ岩山、その上にある茅葺き屋根を乗せた小さなお堂…。澄み切った空気が目の前に広がります。いつもながら引込まれました。
投稿情報: ゆめ | 2010/10/14 21:02