6月の下旬から今月上旬にかけて、中国新疆ウイグル自治区のタクラマカン砂漠周辺=シルクロードの核心部を巡ってきた。
前回のエントリーでは、 渡航を前にこの周辺を巡る政治的な情勢に触れたが、その続きを紹介する前に、この土地の地霊=ゲニウス・ ロキから受けたインスピレーションについて書いてみたい。
20年前にも、ほとんど同じ場所を巡り、ユーラシア大陸核心部のダイナミックであり変化に富んだ自然に感動したものだが、当時、 まだ世界をそれほど見聞したわけでもなく、今ほど、土地が持つ雰囲気をゲニウスロキとして意識してもいなかったぼくにとって、 それは未知のものに出会ったほんとに素朴な感動以外の何ものでもなかった。
ところが、あれから長い時間が経ち、様々な場所を訪れ、 レイラインハンティングという聖地を巡る旅を続けてきた後に同じ自然と対峙してみると、今度は、 あらためて大陸の自然のスケールの大きさに感動すると同時に、土地に秘められたゲニウスロキをひしひしと感じさせられることになった。
新疆の中心部には日本列島を丸々飲み込んでまだ余りある広さを誇る砂の海「タクラマカン砂漠」がある。
昔はこの砂漠を貫く道はなく、古代のシルクロードである周縁部の道を進むしかなかった。それでも、 砂の海の途方もない広がりに眩暈を覚えたものだったが、今回は、タリム油田開発にともなう中央部縦断ルート「砂漠公路」を辿ることで、 タクラマカン砂漠のまさに真髄を体感することとなった。
5世紀初頭、仏典を求めてこの死の海を渡った法顕は、「空に飛ぶ鳥無く地には走る獣なし、 見渡す限りの沙漠で行路を求めようとしても拠り所無く、ただ死者の枯骨を標識とするのみ」と記した。
遠い古代、どうしてこんな死の世界を踏み越えて前に進もうとしたのか? それは、 巨大な虚無として横たわるタクラマカンの先に希望をもたらす聖地があると信じたからだろう。「仏教」という思想は、 それほどまでに魅力的であり、それを秘めた聖地は、命を賭して向かうだけの価値のある場所だった。そして、 西遊記では玄奘三蔵が数々の危難に出会うのがまさにこの西域=新疆であり、そこでの困難を乗り越えて「聖地」天竺へたどり着いたからこそ、 仏の本当の力を得ることができた……。
以前は、そんなふうに考えていた。
しかし、今回、タクラマカン砂漠の中心に身を置いて、一瞬ではあるが、その砂だけの世界と身一つで対峙したとき、 そこは恐ろしい死の世界というよりも、その静謐さと限りない広がりに、途方もない安らぎを感じた。この広大な風景の中で、 自分の体が一瞬のうちに朽ち果てて風化し、砂粒となって風に運ばれて拡散していく……そんな状景を思い浮かべると、 奇妙な安らぎに包まれるのだ。
幼い頃から、ぼくはある風景をあるときは夢で、あるときは白昼夢として見てきた。 それはどちらを向いても地平線の先まで丈の短い草が埋め尽くした草原で、空には鈍色の雲が垂れ込めている。そして、 今にも本格的な嵐になりそうな、背後に絶大な力を秘めた風が、草を波のように揺らしている。
その荒涼とした草原の真ん中に幼いぼくは立って、風に吹かれている。そして、自分が風化して、 一陣の塵となって風に吹きさらわれる様子を思い描き、恍惚としている。
今回、砂漠の中に身を置いて感じたのは、そんな幼い頃からの恍惚とまったく同じものだった。そして、 夢に見てきた草原と同じ種類の土地の「意思」=ゲニウス・ロキを砂漠に感じた。
ぼくが自分の中に秘めた「霊」は、こうした広大な風景のゲニウス・ロキを好ましく思い、それを求めている。そして、 逆にそうしたゲニウス・ロキたちも、ぼくがやってきて、懐深く抱かれることを待ち、誘いかけている。
法顕は、「屍を道標と成す」と記しながら、自らそこで屍となってもかまわないという気持ちで、 砂の海を渡っていったのではなかったか? 自らが砂粒と化して、風に乗って飛んでいくこと、 それも一つの悟りであると気づいたのではなかったか……。そして、法顕は、もちろん自らが仏典を求めて聖地へと旅立ったわけだが、じつは、 聖地のゲニウス・ロキが彼を誘っていたのではないか……。
もう10年以上も聖地に関わる「レイライン」を追い求め続けてきて、「聖地に呼ばれる」ということを強く意識するようになった。
熊野でも、若狭でも、そして先日テレビ番組として構成した白馬でも、ぼくがその土地をイメージし、調べ始めると同時に、 その土地にまつわるエピソードが次々にアンテナに引っかかりはじめ、まるでお膳立てされたように、その土地の人から誘いを受けることになる。 あたかも、自分の意識を働かせ始めることで、遠く離れた聖地のゲニウス・ロキを呼び覚まし、それに導かれて必然的にたどり着くように……。
今回の旅も、他の仕事の兼ね合いを考えれば、二週間という時間はとれるはずもなかった。しかし、20年前のあの風景を思い出し、 そこで出会った人たちを思い起こすと、困難がたちまち消えうせ、ぼくは中央アジアの大地に立っていた。
そして、その大地で、新たなインスピレーションを受けたのだ。
この世には「パワースポット」と呼ばれる場所が確かに存在する。人が何がしかの力を感じ、それを特別な「聖地」 として崇めたくなる場所が。そんな場所に秘められたゲニウス・ロキの性質を個々に探求し、聖地と人、 つまり大地と人との感応を解き明かしていく……聖地の秘密を解き明かしていくことが、自分にとっての大きなテーマであることが見えてきた。
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