□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.291
2024年8月1日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
○高野聖 その1
・優婆塞と勧進聖
・勧進と唱導
・日本総菩提所と不滅の火
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
高野聖 その1
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
前回、前々回と常世としての熊野をテーマにしましたが、その熊野に先日行ってきました。
早朝に花の窟に着いて、まだ誰もいないこのイザナミの墓所と伝えられる巨大な岩のたもとで凄まじいばかりの蝉時雨に包まれていると、やはり熊野は常世だなあという感慨が押し寄せてきます。海へ出れば、玉砂利の砂浜を黒潮に発する力強い波が洗い、雄大な風景とともに、やはりこの世ならぬ雰囲気をひしひしと感じさせます。
ここから至近の友人宅にお世話になり、二日間、熊野の自然にどっぷりと浸かり、その後は、太平洋岸を茨城県の自宅まで戻ってきましたが、意図したわけでもないのに、常世や不老不死という熊野に象徴されるシンボルと出会いながらの帰りの道中となりました。その話はまた後日したいと思います。
前回は、全国に熊野神社が広がった経緯について触れました、そのひとつは一遍が熊野で夢告を受けたという故事をもとに時宗の寺が守護神として熊野権現を勧請したこと、そして、もうひとつは、熊野比丘尼が廻国の勧進をしながら熊野の信仰を民間に広げていったことでした。こうした全国布教のパターンは、じつは高野山信仰も同様なのです。
高野山信仰は、もちろん空海が開いた真言宗が核となっているわけですが、教義としての真言宗よりも、高野山という土地にまつわる様々な神話や逸話をもとに、独自の民間信仰として広まっていったのが実態です。それを全国に広めたのは、熊野比丘尼と同様の勧進聖である高野聖でした。さらに、高野聖は中世後期から近世にかけて、一遍の時宗の門下にあったのもまた熊野比丘尼と同じでした。
そもそも私が高野聖に興味を抱いたのは、空海伝説が全国的な広がりをもっていることを不思議に思ったのがきっかけでした。空海が杖を突いたらそこから清水が湧き出した、あるいは温泉が湧き出したという、いわゆる「弘法水」の伝説はいたるところにあります。また、空海が彫ったと伝わる磨崖仏や仏像とされるものや、うどんや養蚕を空海が伝えたといった起源譚まで、空海が足跡を残していない地方はないといっても過言ではないほど、あらゆる地域にあります。
しかし、奈良時代後期から平安時代初期に活躍した空海の確実に証拠が残るという事跡は九州から四国、そして畿内にほぼ限られ、全国をあまねく行脚した形跡はありません。土台、この時代の僧侶が一人で生涯かけて回ったとしても、空海伝説の分布にはまったく及ばないでしょう。そうした伝説のほとんどは、誰かが自らを空海と名乗ったり、あるいは空海にまつわる話を伝えたりしているうちに、空海本人の伝説として記憶されることになったものと考えられます。
では、どういった人たちが全国に空海伝説をひろめたのでしょう。その答えこそが高野聖です。高野聖といえば、泉鏡花の『高野聖』を思い浮かべる人が多いと思います。高潔で信心深い若い高野聖が山深い越前の峠で路に迷い、たどりついた山奥の一軒家で妖艶な女に誑かされそうになる。一軒家の周りには、猿や馬、犬がたむろしていて、それはみな誑かされた人間が姿を変えられたものだった。しかし、高野聖は魔性の女に誑かされることなく、難を逃れるという話です。
鏡花が描いたような信仰深く高潔な高野聖もたしかにいたとは思いますが、実際の高野聖は鏡花のイメージとは逆で、真っ先に誑かされて動物に変えられてしまうような俗な聖がほとんどだったと考えられます。それはなぜかといえば、高野聖はそもそも勧進聖として全国を廻国しながら、貴賤を問わず幅広く勧進、喜捨を募り、俗と交わることが宿命であったからです。
前回も触れましたが、「高野聖に宿貸すな。娘とられて恥かくな」という俗諺が広まったように、こちらのほうが高野聖の実像といえるでしょう。
高野聖というテーマは、じつは高野山の盛衰の歴史と密接に絡み合っています。高野山の歴史はある一面、高野聖の歴史そのものだったといえるほどで、それに触れると一回のボリュームでは記しきれません。そこで、今回は、高野聖の成り立ちとその機能について触れ、次回に高野聖と高野山の歴史を辿ってみたいと思います。
●優婆塞と勧進聖
古代の寺院は、律令国家の保護のもとに、広大な寺領と荘園を有して、そこから上納される税によつてまかなわれていました。ですから、寺院にいる僧侶は学僧として仏教理論の研究に専念し、ときに天皇や貴族の要請に応じて仏法を用いて護国や魔を払うための加持祈祷などを行うだけで、俗事にかまける必要はありませんでした。
これに対して、庶民の間には、半僧半俗の「優婆塞(うばそく)」と呼ばれる私度僧(勅許によらず、自ら僧になると宣言して修行する者)がいました。優婆塞は、主に山野にこもって修行し、時々里に降りてきては、里人の要請により、死者の供養をしたり、魔除けの祈祷などを行って、その見返りに喜捨を受けて生活していました。
こうした優婆塞の中には、民間で教えを説きながら次第に多くの信者や賛同者を獲得し、勢力を伸ばしてくるものが現れました。修験道の創始といわれる役小角(役優婆塞)もそうですし、数々の土木事業を行い、最終的に東大寺の大仏建立の責任者に任ぜられて大僧正となった行基もそもそもは優婆塞でした。
役小角も行基も、民間において勢力を伸ばしていく過程で、大寺院や公権力からの弾圧を受けますが、その組織力や資金力が無視できなくなると、逆にそれを頼って、大仏建立や寺社の修復などで彼らを頼るようになっていきました。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
最近のコメント