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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.290
2024年7月18日号
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◆今回の内容
○熊野と常世 その2
・熊野御幸
・熊野詣の広がりとその演出者
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熊野と常世 その2
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前回は、なぜ熊野が常世への入口や常世そのものと考えられたのかを考察しました。
熊野に古墳も古代の一般の人々の墓も見られないのは、風葬と水葬という自然葬の習慣があり、熊野の濃密な自然が遺骸を跡形もなく土に戻し、あるいは海の彼方に持ち去って、大海において跡形もなく分解してしまったせいでした。
そして、風葬の担い手の一つであった烏は神の遣いの「八咫烏」として神格化されて今に残り、水葬の習慣は近世まで続いた補陀落渡海として残ったのでした。遺骸が跡形もなく消え失せることが、黄泉の国=常世へと旅立ったという連想をもたらしたのです。
無垢の自然の圧倒的な広がりと濃密さを湛えた紀伊山地という難所を越えて、ようやく辿り着くその隔絶感も常世観につながっていたでしょう。そんな熊野に、中世から近世にかけて陸続と参拝者が訪れ、「蟻の熊野詣」と形容されるようになりました。世界遺産に登録された熊野古道は当時の巡礼路の名残であり、厳しく長い道のりを彷彿させます。
それにしても、なぜ熊野にそれほど多くの人が惹きつけられたのでしょうか。たんに、熊野が常世をイメージさせる場所だったということだけでは、法皇や上皇そして貴族たちがこぞって熊野詣を繰り返したことや、浄瑠璃の小栗判官の物語が生み出されたモチベーションとしては弱いでしょう。
熊野に人が押し寄せた背景には、社会不安と人々の心に巣食った終末感がありました。それは「今」という時代の状況にとても良く似ているのです。
●熊野御幸
熊野詣といえば、真っ先に思い浮かぶのが、後白河法皇の34回、後鳥羽上皇の29回を筆頭に多くの法皇や上皇、それに貴族たちがまるで取り憑かれたように熊野詣を繰り返したことです。従者を大勢引き連れたこれらの御幸(ごこう)によって、それまで、限られた修験者の修行場であった熊野が一躍脚光を浴び、その後、庶民にまで広がって、多くの人が難所を越えて熊野を訪れるようになります。
熊野詣が広まる嚆矢ともいえる後白河法皇の御幸は、最初が永暦元年(1160)で、その後毎年のように訪れます。後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』には、第一回の御幸について、「我永暦元年十月十七日より、精進を始めて、法印覚讃を先達にして、廿三日進発しき」と、一週間あまりの精進の後に出発したことが記されています。
出発から二日後の25日、厩戸王子に宿を取った際、随身していた藤原為保の夢に王子が現われて、「ふる哥をたばぬこそ口おしけれ(古歌を歌ってくれないのが残念だ)」と告げます。同じ夜、やはり同行していた平清盛は、貴人の唐車が王子社の前に止まる夢を見て、「熊野の権現は、名草の浜にぞ降り給ふ、若の浦にしましませば、年はゆけども若王子」と歌うのを聞きました。
後白河法皇一行は出発から1ヶ月かかって熊野本宮に到着し、幣帛を奉って経供養や御神楽を奉納します。そこで、上皇は次のように今様を歌いました。
「観音大悲は舟筏、補陀落海にぞうかべたる、善根もとむる人しあらば、乗せて渡さむ極楽へ。熊野へ参るには、紀路と伊勢路のどれ近し、どれ遠し、広大慈悲の道なれば、紀路も伊勢路も遠からず。聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる書写の山、出雲の鰐淵や日の御崎、南は熊野の那智とかや。
聖の住所はどこどこぞ、大峯葛城石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山。南は熊野の那智新宮熊野の権現は、名草の浜にぞ降りたまふ、海人の小舟に乗りたまひ、慈悲の袖をぞ垂れたま熊野の那智から観音浄土に補陀落渡海する」。
都から遠ざかるにつれて、自然が濃密さを増してゆき、その自然に囲繞された王子で経を唱えて進むうちに、現世を越えて着実に黄泉の国に近づいているという気分が高まっていったことでしょう。そして、一気に海へと飛び出したとき、渡海上人が時代の受苦を背負った代受苦者として観音浄土へと船出していく姿が幻視され、深い安堵に包まれ、開放感に浸ることができたのでしょう。
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