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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.239
2022年6月2日号
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◆今回の内容
○人神の系譜とレイライン2 ―秀吉・家康―
・神威を発揮できなかった豊国大明神
・人神の威力を最大限に発揮した東照大権現
・お知らせ
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人神の系譜とレイライン2 ―秀吉・家康―
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前回、晴明神社と旧内裏(元の京都御所)との位置関係について、風水的な観点から触れました。
平安京創建時の旧内裏は、現在の場所から西方に1.7km行ったあたりにあり、その北東の鬼門を抑えるような形で安倍晴明の居宅がありました。それが後に晴明神社とされましたが、晴明の末裔である土御門家は、戦乱の京から逃れて若狭の名田庄に移り、そこを陰陽道本所としました。
旧内裏は何度も焼失して、ついには遺棄され、今に続く京都御所のほうに移動したわけですが、その後、旧内裏の場所に居を構えたり、本拠にした者たちはなぜか不幸に見舞われた。その代表的な例が豊臣家でした。
豊臣秀吉が豊臣家にとっての現世浄土として築いた聚楽第は、秀吉の隠居後、後継者とされていた甥の秀次が主人となって、ここで政務を行なっていました。しかし、秀吉に息子の秀頼が生まれると、秀次が疎ましくなった秀吉は、秀次に謀反の濡れ衣を着せて自害に追い込み、謀反の因縁の場所として聚楽第を徹底的に破壊してしまいました。
それ以前には、聚楽第の北東端、晴明神社に隣接するように千利休の居宅がありましたが、千利休も秀吉の逆鱗に触れて自害させられました。
そして、豊臣家自体も、息子秀頼の代で滅亡してしまう。なにやら旧内裏には恐ろしい因縁でも染みついているようです。
そんな話の続きというわけでもないのですが、今回も「人神の系譜とレイライン」というテーマで、秀吉にまつわる話と、それと好対照を成す家康の話を紹介したいと思います。
●神威を発揮できなかった豊国大明神●
慶長三年(1598)八月十八日、豊臣秀吉は伏見城で没しました。享年62歳でした。翌慶長四年(1599)四月、その遺骸は京都東山の阿弥陀ヶ峰山頂(196メートル)に新造された廟墓に埋葬されました。そして、朝廷から「正一位豊国大明神」の神階・神号が下賜されました。『豊国大明神祭礼記』によれば、「豊国」は、この社の創祀の一切を取り仕切った吉田神道当主・吉田兼見が、神道での日本の呼称は「豊葦原中津国」であり、秀吉は「和朝の主」であることから、呼称の最初と最後の二文字を取って「豊国」にしたと伝えています。
埋葬された阿弥陀ヶ峰という名は、行基がここに阿弥陀堂を開いたことに由来するとも、平重盛が山麓に四十八間の精舎を建てて、毎夜、一間ごとに四十八灯をともして大念仏を修したことに由来するとも言われます。いずれにせよ、ここからは、京都盆地を間に挟んで西方の山並みに日が没する雄大な景色が拝めることから、古代より西方浄土とつながる聖地とされてきたのです。
秀吉の遺骸は、ここに設けられた廟墓の中で西向きに埋葬されました。それはなぜかというと、西には大阪天満から移された東西の本願寺が並んでいて、これを睨みすえるためです。
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