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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.197
2020年9月3日号
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◆今回の内容
○世界の終わり
・ハレとケ
・聖なるものと穢れ
・尊敬の原理と個性化の原理
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世界の終わり
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「ハレとケ」という言葉があります。
民俗学や文化人類学の用語として登場し、後に社会学でも使われるようになり、今では一般的な用語となりました。その一般的な使われ方では、「ハレ」は特別な儀礼・祭礼やイベントのような気晴らしになるもの、「ケ」はそれと対照をなすかわり映えのしない日常を指します。
今のコロナ禍の中では、特別なイベントである「ハレ」の時間を過ごして気晴らしができず、「ケ」=日常の時間が重くのしかかってくることで、様々なストレスが溜まってきているといった言い方もされます。
しかし、そうした個人的経験レベルのハレは、たとえコロナ禍以前の日常が戻ったとしても、所詮、ちっぽけな気晴らしに過ぎず、またすぐに日常に退屈して、ハレ=気晴らしを求め、一時的に満たされて、またすぐ退屈し……といったスパイラルに落ち込んでしまうのは目に見えています。
じつは、今日、コロナ後の観光施策を検討するミーティングがありました。そこでは、コロナ以前のいわゆるオーバーツーリズムのような状態に戻すのではなく、今後の「観光」はどうあればいいのかと話していました。
そして、経済優先、利益優先で、いったい何をしに行ったのだかわからなくなっていた「観光」をリセットするのに、このコロナ禍はいい機会だったのかもしれないと。
コロナ禍で、日常の窮屈さがいや増している今、コロナ後の気晴らし的なハレを想像するだけでなく、「ハレとケ」という概念の本来の意味とそのダイナミズムを知り、現代におけるハレとは何なのかを知ることが大切なのではないかと思うのです。
●ハレとケ●
もともと「ハレとケ」という概念は、個人レベルの気晴らしを指すようなものではありませんでした。それは、自然と社会の営みを対象にしていました。
自然と社会(二つを合わせて宇宙といってもいいですが)は、淡々と日常が続いていくうちに生命体と同じように老化してゆき、最後には破壊に至ってしまうと考えられていました。実際、都市や国が永遠に栄華を極めることなどなく、ピークを越えた後に衰退に向かっていくことは歴史が証明しています。
しかし、人は、なんとかして自然と社会を定期的に若返らせ、永続させようと考えました。自然と社会が老化していくと、老廃物として穢が生まれ、それが溜まっていくと、次第に秩序が崩れてカオスに向かっていきます。ハレの儀式は、その穢れを取り払いカオスを一気に解消するものでした。ちなみに、「穢」という字は禾偏に「歳」と書きますが、それは歳を重ねるごとに溜まっていくものという意味です。
ハレの儀式としては、よく祭り=カーニバルが例えられます。本来の祭りは、単なるストレス発散のバカ騒ぎというだけではなく、もっと徹底したものでした。それは、日常の世界の秩序を逆転させ、わざと日常を混沌の渦に落とし込み、それを擬似的に破壊して、世界の再生を促すものでした。
古代ローマのサトゥルノ祭(サトゥルナリア)は、クリスマスの起源の一つともいわれますが、クリスマスが冬至の太陽再生を願う祭りであると同時に、太陽だけでなく社会を再生する意味を持っていました。
サトゥルノ祭では、その期間中、本来の王の代わりに、奴隷の中から選ばれた偽の王が玉座に据えられます。この偽の王は、至上の神サトゥルヌスの化身として、殺人を除くあらゆる振る舞いが許されました。そして、そのふるまいが放埒で、ハメを外したものほどいいとされ、庶民もそれを真似てハメを外し、街がカオスに飲み込まれていくことに歓喜しました。
カオスが頂点に達する祭りの最終日、偽の王はその役割を終え、サトゥルヌス神の祭壇へと引き出されます。そして、カオスをもたらした罪人として、一刀両断に断首されます。カオスの根源が処刑されたことで、たちまち社会からカオスが一掃され、新たな活力を持って再生するのです。
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