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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.153
2018年11月1日号
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◆今回の内容
◯海と聖地
・海部氏という海洋民族
・岬の聖地性
・浜の聖地性
◯お知らせ
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海と聖地
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先週末、徳島県の吉野川市で行われたイベントに参加してきました。これは、徳島県を中心に四国各地の特産品を紹介するマルシェのようなものでしたが、なかなかユニークな活動をしている人やグループが参加していて、丸一日楽しめました。
その中の出店者の一人、徳島県南部の海陽町で藍染の工房を営む永原レキさんとは、前夜祭からご一緒して、彼が古代の海洋民族「海部(あまべ)」の末裔であるという話や、徳島は山の民である忌部と海の民である海部と全く違う文化が近代以降に合体して、独特の文化が今でも息づいているといった話で盛り上がりました。
永原さんは、中学時代にサーフィンと出会い、高校、大学時代を通してサーフィンに明け暮れ、本場のオーストラリアにまで渡ります。ところが、プロを目指したものの限界を感じて、その道は諦めて帰国します。東京で自分の進路について模索していたとき、たまたま覗いたオーガニックイベントで見かけた藍染めに惹かれて、そのブースで話を聞いてみると、工房があるのが自分の郷里だと知り、運命に身を任せるように故郷に戻ってきたのです。
工房に入り、地元の自然素材だけを使い、その素材と対話するように染めていく工程を繰り返すうち、彼は、波と対話するようにライドするサーフィンのフィーリングとのシンクロを感じて、彼は藍染に魅了されていきました。また、藍染という伝統工芸を手がけることで、自然と地元の歴史や文化にも目が向いてゆき、自分の中に海部という海洋民族の血が流れていることを自覚したのだといいます。
今、彼が拠点にしている場所はJRの「海部駅」の近くですが、その先の海岸には、細長く海へ張り出した岬があって、その内側が天然の良港を成しています。みの地形は古代から変わらず、南の海からやってきた海洋民たちは、ここにたどり着いて、拠点とするようになったのだといいます。
阿波を代表するもう一つの民族である忌部に関しては、以前、山の集落と忌部氏が祀る大麻神社を訪ねて調べたので、その山の文化の特殊性は知っていました。しかし、徳島の南部沿岸部が海部の拠点の一つであったことは、永原さんの話を聞くまでは知りませんでした。
(参考:「廃れつつある叡智を求めて --阿波忌部を訪ねる--」レイラインハンター日記 2009/12/17 https://obtweb.typepad.jp/obt/2009/12/-----63da.html)
私も、この春から、郷里である茨城県の鹿島灘沿いの町に戻ってきて、毎日、海岸をジョギングしていますが、この海が遠い世界に紛れもなく繋がっていることをあらためて自覚して、海から来るものを想像しています。そして、私の血にも、遠い海の彼方からやってきた海洋民族のDNAが色濃く残っていて、それが海の彼方への郷愁のようなものを呼び起こすのではないかなどと考えていたので、永原さんの感覚がよく理解できました。
ということで、今回は、最近とても身近に感じている海から発想して、日本の海岸部に残る海洋民の痕跡や、海岸の聖地性について触れてみたいと思います。
●海部という海洋民族
人類学的に見ると、日本に住み着いた海洋民族は、当初は南シナ海に大きく広がっていた陸地であるスンダランドに住んでいたとされます。1万5千年前から5000年前くらいにかけての海面上昇によって、スンダランドは海の底に沈んでしまい、ここに住んでいた人たちは、海を北上し、琉球弧から日本列島に到達して定住したとされます。それが縄文人のコアを成したという説もあります。
その後、大陸や朝鮮半島から人が移り住み、様々な民族が日本列島の中で混交していきます。その後、「倭人」という呼び名が大陸では一般的になるわけですが、その「倭人」という概念は、7世紀くらいまでは、日本列島に住む者だけでなく、朝鮮半島や江南までを含む東アジアの海洋民を指していました。『後漢書』には、「倭人」が漁労技術に優れた集団であると記されています。
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