□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.140
2018年4月19日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
◯江の島に秘められたもの
・大地の躍動が生んだ聖地
・弁財天信仰
・五頭龍と龍口寺
◯お知らせ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
江の島に秘められたもの
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
前回は、今週末の朝日カルチャーセンターでの講座に因んで、寒川神社と大山の謎をテーマとしましたが、今回もダブルヘッダーの講座のもう一つのテーマである「江の島」について考察してみたいと思います。
寒川神社は、今は海岸線から10キロメートルあまり内陸にありますが、縄文時代の海進期には、海が内陸深くまで嵌入していたため、ちょうど汀線近くにありました。その後、陸が大きく隆起して、今の地形となりました。寒川神社がある相模国、とくに海岸部である湘南地方は地殻変動が激しく、同じ地方に位置する江の島も、地殻変動の影響を受けて、陸から離れた島になったり、また陸と繋がったりと、激しく変化してきました。
つい最近では(といっても地質年代からすればということですが)、大正12年(1923)の関東地震のときに大きく隆起し、ずっと海底にあった海蝕台が姿を現しました。そのように、まるで生き物であるかのように出没する姿に神秘を感じたのが、江の島が聖地となった一つの理由ともいえます。
●大地の躍動が生んだ聖地●
相模湾から伊豆半島にかけての日本列島中央部は、世界でも珍しい三つの大陸プレートがぶつかりあう場所です。日本列島のほぼ全域が載ったユーラシアプレートに北から太平洋プレートがぶつかり、南東方向からフィリピン海プレートがぶつかって、とても入り組んだ地質構造をしているのです。
以前、伊豆の聖地をとりあげたとき、伊豆半島と伊豆・小笠原諸島はフィリピン海プレートに載っていて、太古にははるか太平洋上の島だったものが、北西へ進んできて日本列島にぶつかって今の形になったと解説しました。そのため、伊豆諸島と小笠原諸島だけでなく、伊豆半島も日本の他の地域とは異なる熱帯の植生がいまだに優勢なのです。
伊豆半島から伊豆・小笠原諸島にかけての陸部のことを伊豆・小笠原弧といいますが、この伊豆・小笠原弧は太平洋プレートがフィリピン海プレートの下に沈み込むことで生じた火山列で、今でも活発な火山活動が続いているのは、ご存知のとおりです。さらに、伊豆・小笠原弧を載せたフィリピン海プレートは日本列島の下に沈み込んでいくわけですが、火山の山体はマントルよりも軽いので、沈み込まずに日本列島と衝突して山地を形成します。それが、御坂山地や巨摩山地、丹沢山地です。
また、この衝突によって、深海底には遠洋性堆積物(チャートや泥岩)と陸源砕屑岩(礫岩や砂岩泥岩互層)がたまり、それがまた日本列島に押し付けられることで、房総半島南部から三浦半島、大磯丘陵まで広がる新第三紀層という地層帯を形成しました。江の島もこの新第三紀層の一部で、特徴的な凝灰砂岩の上に関東ローム層が載った地質になっています。つまり、大陸プレートのぶつかり合いというダイナミックな大地の営みによって、江の島は生まれたわけです。さらに、巨大な大陸プレートがぶつかる周辺にできた無数の活断層が、江の島が出没させたわけですから、その神秘性も大地の営みに由来するといえます。
江の島は、周囲4km、標高60mの陸繋島です。かつては、引き潮の時だけに洲鼻(すばな)という砂嘴(さし)ができ、対岸の片瀬から歩いて渡ることができました。こうした引き潮のときに陸続きになることをトンボロ現象と呼びます。江戸時代の浮世絵を見ると、島として描かれている絵と、トンボロ現象によって陸続きになり、その砂嘴を大勢の人が歩いて江の島へ参詣している様子の両方が描かれています。それが、先にも記したように、関東地震で島全体が隆起して地続きになりました。
島の周囲は切り立った海蝕崖で、とくに波を強く受ける南部は海蝕が激しく、深い海蝕洞が形作られています。これは「岩屋」と呼ばれ、奈良時代の役小角を嚆矢として、修験者たちがこの岩屋に篭って修行するようになり、さらに聖地としての神秘性を増していきました。平安時代には空海、円仁、鎌倉時代には良信(慈悲上人)や一遍が、江戸時代には木喰が参篭して修行したと伝えられています。平安時代には、富士山が何度も噴火していましたから、この岩屋に籠った空海や円仁は、その鳴動を聞き、噴煙や夜空に吹き上がる溶岩も見たことでしょう。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
コメント