昨日、都内のある神社で宮司さんの話を伺った。
この神社が地域と共同でコミュニティスペースを作り、そこでいろいろなイベントを展開する予定なのだが、何か土地に根づいた神社らしいイベントができないかと、ヒアリングさせてもらったのだ。
社務のほうは後代に譲って、今はほぼ引退しているが、長い間、自社を中心とした地域の歴史を研究し、文化財審議委員などもされてきた人だけに、地域のことをよくご存知でとても参考になった。
そんな中、なんだかホッとする場面があった。
それは、神社本庁傘下にありながら、この宮司さんが、「国家神道」と「神道的なるもの」をしっかり区別している人だったことだ。
そもそも「神道」などという統一されたものはない。太古の自然信仰を底流にして、様々な地方の信仰や道教、陰陽道、仏教が入り混じってカオス的な信仰としてあるのが「神道的なるもの」だ。
日本人の優れた特性は、そうしたカオス的なものを大づかみに把握して、「神でも仏でもキリストでもアラーでも何だって好きなものを信じればいいし、何も信じなくてもいいじゃないか」と鷹揚な心性を持ってきたことだ。
北から入ってきたシャーマニズムも朝鮮半島や中国大陸から入ってきた思想も、南方から黒潮に乗ってやってきた島と海の信仰も、みんなごった煮にして、美味しく「イタダキマス」だから、誰に対しても寛容でいられる。
「神道的なるものは、宗教の博物館なんですよ。全部入っているんです」とは、その宮司の言葉だが、まともに歴史を学べば、皆同じ認識に至るはずだ。
国家神道なんて「神道的なるもの」からもっとも離れたカルトだし、それを「神道」と称して、無垢な子供に刷り込みしようなんていうのはカルトの中でも最も醜悪なもの。オウムや北朝鮮やイスラム国とまったく同じ。
教育勅語を暗唱できることなど美徳でも何でもない。いい大人が好き好んでやるならそんなもの勝手だが、人に強制するのは、寛容で美しい神道的なるこの国にもっともそぐわない醜い行為だ。
神社本庁でも、日本会議でも、自民党でも、そういうことがわかっている人が大勢いるはずだ。
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