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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.102
2016年9月15日号
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◆今回の内容
◯東大寺という聖地
・僧形八幡神坐像
・良弁、行基、実忠、空海
◯お知らせ
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東大寺という聖地
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この講座でも度々紹介している若狭小浜の「お水送り」ですが、早くも来年のツアーの問い合わせが入りはじめ、年毎に関心が高まってきているのを実感します。
そのお水送りと対を成す奈良東大寺の「お水取り(お水取りを含む一連の儀式は修二会と呼ばれます)」は、大メジャーな催事となって、こちらは立錐の余地のないほど観光客を集めています。
大手の旅行会社の中には、お水送りとお水取りをセットにしたツアーを催行しているところもありますが、私がアテンドするツアーも、来年は両者を結ぶオプションを設けようかと考えています。若狭から送られた「ご香水」が、奈良東大寺で汲み上げられて十一面観音に供えられるまでをしっかりと追ってみたいですからね。もちろん、実際は鵜の瀬で流された水か東大寺二月堂の若狭井に湧き出すわけではなく、東大寺の使者が受け取った水が用いられるわけですが、それでもこのマジカルな儀式に込められた意味にはとても興味をそそられます。
そもそも日本では仏教と神道が入り混じった神仏習合というだけでなく、それに陰陽道や道教、古来からの山岳信仰や民間信仰における呪術、さらにはペルシャから入ってきたゾロアスター教などが複雑に混交して、独特の宗教風景を形作っていました。その典型が「お水送り-お水取り」と言えます。
今回は、来年のツアーも意識しつつ、お水取りという儀式を切り口に、東大寺の本質について考察してみたいと思います。
【僧形八幡神坐像】
私のスマートフォンの待受画面は、一見写実的な仏像の画像になっています。右衽の衣の上に袈裟を懸け、右手は細長い錫杖を執って優美に小指を伸ばし、左手は数珠を繰り、背後に円形の頭光を背負って蓮華座に安坐しています。何より目を引くのは、肖像のように写実的で艶のある肌をしたその尊顔です。この像はどこからどうみても仏像なのですが、「僧形八幡神坐像」というれっきとした神像なのです。日本の神は形を持ちません。そして神道では偶像も用いないため、この神像は、理屈から言えば本地垂迹に基いて仏に化現した神の姿を表したものです。
しかし不思議なのは、本地垂迹に基いて神が仏に化現したという場合は、「八幡大菩薩」という仏名をつけるのですが、これは「八幡神」と神のままの名前になっていることです。じつは、このことに東大寺独特の宗教風景が端的に表れています。
国宝に指定されるこの「僧形八幡神坐像」の説明文は以下のように記されています。
『僧形八幡神坐像は、東大寺の鎮守八幡宮(現在の手向山八幡神社)の御神体であったが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈によって東大寺に移されたもの。
同宮は、治承4年(1180)12月の平氏の焼き討ちにより炎上したが、造東大寺大勧進俊乗房重源上人により再建された。その際、焼失した御神体の新造が計画された。
当初重源上人は、京都・鳥羽光明院に伝来した空海感得の御影の下賜を後鳥羽院に願い出たが、東寺再興の文覚上人や石清水八幡宮も競望するところとなり、結局東大寺には下賜されなかったため、重源は信頼厚き快慶に委嘱して、この神像を新造したのであった。
本像は桧製で、頭・体部は正中線で縦木二材を合わせている。内部は頭部にいたるまで内刳りを施してあり、漆で麻布が貼られている。ここに任阿弥陀仏寛宗の筆になる長文の墨書銘があり、その中には、後鳥羽天皇や七条・八条両女院、仁和寺守覚法親王を始め、今はなき後白河院、東大寺別当弁暁や造像に従事した快慶を中心にした結縁の仏師、銅細工師業基、漆工、或いは笠置寺貞慶の叔父澄憲や明遍等の碩学の名も記されている』(僧形八幡神坐像パンフレットより)
重源は東大寺中興の祖ともいえる人ですが、僧である彼が消失した八幡宮を復興させ、新たにご神体を当代屈指の仏師であった快慶に依頼するというのは、基本的に神社と寺の区別はなかったことを物語っています。神仏習合や本地垂迹というといかにも神と仏が異質なもので、それを無理やり整合させたような印象を受けますが、実際には厳密な理論があったわけではなく、もっと柔軟なものであったことがわかります。
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