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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.93
2016年5月5日号
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◆今回の内容
1.島への思いと信仰
・青ヶ島還住と島のゲニウス・ロキ
・徐福伝説と為朝伝説
2.お知らせ
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島への思いと信仰
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前回も長引く熊本の地震から話を始めましたが、あれからさらに2週間が過ぎた今になっても地震はおさまっていません。気象庁は「前例がない」として半ば予測を諦めてしまいましたが、気象庁が言う前例とは、近代的な観測が始まってからの記録ということで、たかだか100年のスパンのものです。歴史的な記録ははるか以前からありますから、そうした古記録まで掘り起こして、総合的な判断をする幅の広い視野を持たなければいけないと思います。
3.11の時も、初めのうちは「過去に例がない」と発表されていましたが、ほとんど同じような海溝型の巨大地震とそれに続く大津波の記録が貞観時代にあることがわかりました。熊本の地震も17世紀から18世紀にかけて、今回と同じような大地震があり、さらにその後、長く余震が続いたことが『細川家旧記』の中に記されていました。
災害が頻発する時代を生きることになった私たちにとって、歴史を「生きた記録」として見直して行くことはとても大切だと思います。
そんな観点から、今回は、前回のポリネシアの話から引き続き、災害と信仰にまつわる日本の島の歴史を紐解いてみたいと思います。
【青ヶ島還住と島のゲニウス・ロキ】
柳田國男は『島の人生』の中に「青ヶ島還住」という一項を設け、噴火災害で壊滅した青ヶ島が半世紀後に再興される歴史を記しました。「還住(かんじゅう・かんおう)」という言葉は、今では一度捨てた故郷に再び定住するという意味の普通名詞として使われますが、これは柳田國男がこの中で使った言葉が一般に定着したものです。
青ヶ島を壊滅させた大噴火は、別名「天明の別れ」とも呼ばれます。天明5年(1785)、それまで小中規模の噴火を繰り返していた青ヶ島が大噴火を起こします。この噴火で青ヶ島全体が焦土と化し、全人口300数十人のうち逃げ遅れた130人が死亡するという大惨事になりました。
辛くも噴火から逃れた200人は八丈島に避難しますが、折しも天明の大飢饉が日本全土を覆い、八丈島も例外ではなかったため、非常な苦難を強いられることになります。ようやく体制を立て直して帰島したのが40年後のこと。これを柳田は還住と呼んだわけです。
青ヶ島は本土から357km、八丈島からも67km離れた伊豆諸島最南端の島で、現在の人口は200人あまり。面積は5.2平方キロ、島の周囲は高さ100-200mの海蝕崖になっています。島は海に突き出した火口で、さらにその内側にも火口を持つ世界的にも珍しい複式火山です。近年は離島ブームもあって人気を集める島の一つとなっています。目の覚めるような星空と島を覆う濃密な緑、そして周囲の紺碧の海は、まさにこの世の楽園で、この島をかつて大きな悲劇が襲ったとは想像できません。
天明の大噴火に至る数年前から、青ヶ島では地震と噴火が続いていました。初めの噴火は安永9年(1780)、桜島の大噴火の翌年でした。このときは噴火の前に地震が6日間続き、さらに火口湖に湯が湧き出して大きな湯釜となった直後に噴火しました。翌10年にも中規模の噴火があり、この二度の噴火で火口周辺の作物や植物は枯れ果ててしまいました。さらに最初の噴火から3年後の天明3年、ついに大噴火が起こります。このときは、火山灰が厚く覆って島の作物と植物を全滅させてしまいました。このときはまだ人的な被害はなく、一部の島民が八丈島に救援を求めに行きます。
天明5年3月10日の朝、八丈島に渡っていた青ヶ島島民ははるか海上に火柱が立ち上っているのを目撃します。救援の船をすぐさま差し向けますが、広く海上に火山弾が降り注ぎ、立ち込める噴煙と蒸気に島に近づくことができず、ようやくそれから一ヶ月半後の4月27日に接岸に成功します。このとき岸壁にへばりついて生き残っていた人は163人。残る130人は噴火の犠牲となりました。
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