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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.55
2014年10月2日号
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◆今回の内容
1 江戸の風水とレイライン
江戸の風水
鹿島-富士レイライン
2 お知らせ
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江戸の風水とレイライン
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先週末は御嶽山が突然噴火し、多くの方々が犠牲となる痛ましい
災害が起こりました。御嶽山は、この数年、王滝口登山道の途中に
ある田ノ原まで行って、何度も頂上に登ろうと思って果たせず、今
年こそはと思っていた矢先でもあったので、他人事ではなく感じま
した。
3.11のときもそうでしたが、こうした自然災害が起こると、震源
や火山がレイライン上のポイントに当たり、同じラインに乗るポイ
ントで次に同様の現象が起こるとまことしやかにネットに掲載する
人がいますが、レイライン上で連鎖反応が起こるといったことはま
ずありません。地震予知にしろ噴火予知にしろ、それを正確にでき
るレベルまで科学技術は到底及んでいませんし、予知が可能な技術
が過去に存在したという証拠もありません。
仮に火山や地震の震源を結ぶレイラインがあるとすれば、それは
事象が起こった後に、こじつけて考えられたものがほとんどです。
泰澄が何かを感知して活断層を見分け、それに沿って土地鎮めを行
った例はありますが、それで地震が予知できたわけでもありません。
御嶽山の噴火はまさに「御神火」で、私たちは、犠牲になられた
方々を偲びつつ、はるかに人智を超えた自然の営みに対して畏れる
気持ちを抱きながら、自然のリズムに逆らわないようなライフスタ
イルを築いていかなければならないでしょう。
さて、今回は、今月22日に行われる「ぽけかる倶楽部」の東京レ
イラインツアーに絡めて、江戸=東京の風水とレイラインについて
ご紹介してみましょう。
【江戸の風水】
1603年、徳川家康は江戸に幕府を開きます。その頃の江戸は、太
田道灌が江戸開府の150年前に築城した江戸城を中心にして、その
周辺に寺社や武士の住まいと練兵場がある程度のこじんまりした規
模の街でした。江戸城の東は湿地帯が広がり、その先は海で、南北
と西側には荒野が広がっていました。
京の都から見れば僻遠の地ともいえるこんな場所に家康が幕府を
開いたのは、そこが朝廷の力が及びにくい場所であると同時に、か
つて朝廷に反旗を翻した平将門が眠る土地だったからでした。
現在も、皇居の東、大手町のビルの谷間に平将門の首塚があり、
さらに江戸の総鎮守とされた神田明神は平将門を祭神としています。
余談ですが、「神田」は平将門の首のない体を埋葬した場所で、
「体」と呼ばれる地名だったものが訛って「神田」になったと伝え
られています。
平将門の首塚には、これに不敬を働くと祟りがあるとされ、関東
大震災後の跡地に首塚を潰して大蔵省の仮庁舎を建てようとした際
に、その時の大蔵大臣だった早速整爾が急逝し、さらに職員や工事
関係者が相次いで不審な死を遂げたことから、ついに建設が中止に
なったという事件がありました。また、第二次世界大戦後、GHQが
区画整理でこの塚を造成しようとした時にも、事故が相次いだため
に計画を取りやめたということがありました。
平将門の首塚には、今でも毎日生花が手向けられ、神田明神の祭
りは現在でも、東京でいちばん賑やかで勇壮な祭りとして続けられ
ています。こうした、将門を崇める風習は家康の江戸開府から始ま
ったのです。
平将門は、平安時代中期の天慶2年(939年)に朝廷への反乱を起
こし、常陸国国府軍を打ち破った後、自らを「新皇」と名乗って武
家政権を確立しようとしました。この乱は二ヶ月あまりで鎮圧され
ましたが、貴族の下で蔑まれていた武士たちからは、実力行使によ
って貴族から権力を取り上げ、武士の世を作ることができるという
証を示したことで、英雄視されるようになりました。
将門は、朝廷軍に破れ、その首は京に運ばれて晒し首にされまし
た。その首が、故郷を恋しがり、飛んで帰ったのが現在まで残る首
塚の場所だったと伝えられています。
家康は、そんな故事にならい、武士の世が末永く続くようにと、
将門の霊を江戸の守り神としたのでした。
家康には何人かのブレーンがいましたが、風水やそれにもとづく
都市計画に助言したのは、天台宗の僧侶である天海でした。天海は、
家康が亡くなった後に、日光東照宮に家康を「東照大権現」として
祀り、関八州の鎮守としたことで有名ですが、平将門を江戸の守り
神とする発想も、たぶん天海が提案したものだったのでしょう。
他にも天海がデザインしたと思われる風水的な仕掛けが東京には
残されています。
上野にある寛永寺は、江戸城の北東に位置していて、鬼門を封じ
る寺として知られていますが、この寛永寺の創建にも天海は関わっ
ています。寛永寺の正式名は東叡山寛永寺。「東にある比叡山」と
いう意味で、京都の北東にあって鬼門を抑えている比叡山を江戸に
も持ってきて鬼門封じとしたのです。さらに、寛永寺の地所である
上野公園には不忍池がありますが、これは琵琶湖を模しています。
琵琶湖は比叡山の東にあって、その中に浮かぶ竹生島には弁天様が
祀られています。不忍池は寛永寺の西にあるので、位置関係は比叡
山と琵琶湖の逆になりますが、不忍池の中に浮かぶ弁天島には竹生
島から勧請された弁天様が祀られていて、まさに京都の鬼門封じと
同じ構造がここに作り出されているのです。
さらに、江戸城から逆に南西方向に目を向けると、目黒不動に突
き当たります。目黒不動の正式名は泰叡山龍泉寺で、ここにも比叡
山の名が隠れています。さらに、龍泉寺という名は、龍が住む泉で
すが、龍は水神であり、同じ水神である弁天様に対応します。つま
り、江戸城の南西、裏鬼門にも比叡山と琵琶湖のセットを置いて、
二重に江戸城を守護したわけです。
天海はその出自が謎ですが、一説には、本能寺の変で織田信長を
討った明智光秀が天海に名を変えて家康に仕えたのではないかとも
言われています。光秀は比叡山延暦寺と関係が深く、自らも天台宗
に深く帰依していました。ところが、織田信長は、僧兵を後ろ盾に
して自分のいうことを聞かない比叡山に激怒し、焼き討ちしてしま
います。この一件以来、光秀と信長の反目が激しくなり、ついには
本能寺の焼き討ちに至ります。光秀の亡骸が確認されていないこと、
天海が関ヶ原の戦いに突然家康の側近として登場し、その後、ずっ
とブレーンであり続けたこと、江戸の風水で、とくに比叡山を重要
視したことなどから、天海光秀説は否定できません。
それはともかく、天海は家康亡き後も、三代将軍家光の代まで徳
川家の側近として活躍します。亡くなった時はゆうに100歳は越え
ていたと考えられますから、当時としては異常なほどの長寿でした。
天海は、家光の代には、「五色不動」の創建を進言したと伝えら
れています。五色不動とは、先に挙げた「目黒不動」と「目白不動」、
「目青不動」、「目黄不動」、「目赤不動」の五つの不動尊です。
目黒と目白は山手線の駅名にもあるのでよくご存じだと思いますが、
他の三つも現存しています。
●ぽけかる倶楽部 10月22日
「東京レイラインツアー」
本文でも紹介した東京の風水ポイントとレイラインをバスで巡る
ツアーです。
【コース】
目黒不動 …江戸城の裏鬼門を押さえる。不動明王が炎に包まれる
光景が演出されている。
↓
国会議事堂 …通過しながら解説。江戸城~目黒不動ライン上に位
置する。
↓
皇居・将門首塚 …江戸のレイラインの要である皇居と、守り神で
ある将門首塚。
↓
上野不忍池・寛永寺 …比叡山と琵琶湖を模して、京都の風水を再
現している。
↓
東京スカイツリー(R) …鹿島~富士山ライン上に位置。日光から
の龍脈を導く。
【食事】
不忍池の畔にある「水月ホテル鴎外荘」で1日10食限定の『京このみ』
をご用意
【スケジュール】
09:50 東京駅 鍛冶橋駐車場にて集合・受付
10:00 バス出発 東京レイラインツアースタート
目黒不動 見学
国会議事堂(車窓)後、皇居前広場下車、将門首塚 見学
13:30頃 水月ホテル鴎外荘にて昼食
上野不忍池・寛永寺 見学
東京スカイツリー(車窓)
16:15頃 東京駅周辺にて解散
★ ツアーのお問い合わせ・お申し込みは「ぽけかる倶楽部」へ
http://www.poke.co.jp/book/calendar.php?search=1&eventid=5006
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