昨日、「国内で初、奈良に大型ピラミッド方墳 蘇我稲目の墓?」というニュースが駆け巡り、関西の新聞では一面トップを飾った。
http://www.asahi.com/articles/ASG8C2FH0G8CPOMB001.html?iref=comtop_6_01
明日香でピラミッド状の古墳が見つかり、これが蘇我氏の礎を築いた蘇我稲目の墓ではないかと伝えている。さらに、近くにある石舞台古墳は、蘇我馬子の墓と推定されているが、このピラミッドが稲目の墓とすれば、石舞台が馬子の墓である可能性が一段と高まるとする。
報道では、日本初のピラミッドの発見と謳うが、じつは、話題の一つである石舞台古墳自体が、ピラミッドの形体であることが、なぜか知られていない。
今は外装構造がないのではっきりと「ピラミッド」と言われないけれど、基底部の形は間違いなくピラミッドだ。さらに、蓋石の間にエジプトのピラミッドと同じシャフトが通っていて、これが正確に二上山を捉えている。
以前、聖地学講座で取り上げた石舞台古墳の記事を再録してみよう。
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【石舞台と酒船石】
石舞台は、明日香の観光案内などで大きく扱われることが多いので、「明日香」というと、この巨大な石造物を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。イギリスのストーンヘンジやドルメンを連想させる特異な形の石組みは、7世紀初頭に勢力の絶頂にあった蘇我馬子の墓と推定されてきました。地質調査によれば、築造されたのも7世紀初頭で、馬子と重なりますが、記録はなにも残されて
おらず、特定はされていません。
長辺が7.7m、幅が3.5m、高さ4.7mの外形で、内部は石室となっていて、かつては全体が土の下にあって墳丘を成していたと考えられています。周囲を見渡すと、まず一辺80mあまりの基壇が築かれ、その上に一辺51mの基壇が載せられ、石舞台はその中央に位置しています。この構造を見ると、全体に土盛りされてピラミッド型をしていたのではないかと想像されます。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2013/02/asuka.html
エジプトやインカのピラミッドでは底辺が正確に東西南北を向いていますが、石舞台の方位を測ってみると、北向きの辺は方位角で30°を向いています。ピラミッドを真上から眺めて、ちょうど時計方向に30°回した形になっているわけです。石室への入口は南側から入る形になっていて、この方位角は210°。180°なら真南で、南中した太陽の光が射し込む形なわけですが、それには当てはまりません。冬至の太陽の日没方向もここでは299°なのでまったく当てはまりません。この石室への入口の方位に何らかの意味があるとしたら、太陽ではなく星に照準を合わせているのかもしれません。
エジプト生まれの建築技師ロバート・ボーヴァルは、ギザにある三つの大ピラミッドがオリオン座のオリオンベルトと呼ばれる三ツ星の配置に符合することを突き止め、古代エジプトでのオリオン-オシリス信仰の証拠として提出しました。
さらにエジプト学者のアレグザンダー・ハダヴィは、クフ王のピラミッドにある王の間から伸びる二本の細い長いシャフトがそれぞれ特定の天体を指し示していることを証明しました。
北側に向かって31°の仰角で伸びるシャフトは紀元前3000年から2500年まで北極星だった竜座アルファ星を睨み(コマの回転が落ちてくると軸がブレるように、地球は歳差運動という地軸がブレる運動をしているため、時代が変わると地軸の延長上にある北極星も変化します)、南へ向かって伸びるシャフトは、仰角44.5°で、紀元前2840年から2480年までのオリオン座の正中位置を指し、24時間毎にオリオン座の中心にある三ツ星のオリオンベルトがシャフトの延長上を通過するように設計されていました。
そんな例から考えると、ピラミッドと同様の構造を持つ石舞台古墳の方位角210°を向いた石室への通路も特定の星を指していた公算が高くなります。具体的にどんな星を指していたのかは、計算が複雑になるので、また結果が出た時点でご紹介したいと思います。
石舞台古墳の周囲を巡っていると、ここが大和盆地を一望する高台にあって、ずいぶん遠くまで見通せることに気づきます。そして、独特の双耳型の峰を持つ二上山がひときわ目立つランドマークとして目に飛び込んできます。
この講座の第9回で、太陽信仰において双耳峰が特殊な役割を負っていたという話を書きました。二つの峰の間にある鞍部に冬至の太陽が沈む時、太陽は冥界へと旅立つとされ、同時に冥界への扉がその瞬間だけ開かれ、この世の魂も太陽とともに冥界へ旅立つと考えられました。そして、翌日、太陽は生まれ変わり、一緒に冥界へと向かった魂も復活すると考えられたのです。
石舞台古墳は四周に岩を積み上げた上に二つの大岩を蓋のように載せた作りになっています。よく見ると、その二つの岩の間には東西に貫通するシャフトのような隙間があります。東側からこの隙間を覗きこむと、そこには、遠くにある二上山がぴったりと収まって見えます。GPSでその方位を測ると294°という数値が出ました。石舞台のある丘では、冬至の入日の方位角は298°になります。これは、今でもほんの少し視点をずらすだけで、冬至の入日が二上山の鞍部にピッタリ落ちていく光景が見られるでしょう。また、地球の歳差運動を計算に入れれば、よりこの誤差は小さくなる可能性があります。
石舞台古墳に埋葬された人物が蘇我馬子かどうかはわかりませんが、こうして、冬至の入日にフォーカスした構造を持つことから、ここに葬られた人物が、エジプトのファラオと同じように、魂の永遠性を獲得するように願われていたことは間違いありません。
石舞台古墳で長居をしてしまったため、次の酒船石ではあまり時間を取ることができませんでした。それでも基本的な情報は取得しておこうと、GPSで方位を、簡易水準器で平行を測ってみました。
その結果、この石が正確に東西方向に向けられていて、水を溜めるような丸い凹部がある東から、人体が横たわっているような形に溝が伸びる西へ向かってわずかに下りの傾斜が付けられていることがわかります。
酒船石は、岩に掘られた溝を液体が流れ下ることによって、比重の異なる物質を選り分けるような構造をしています。松本清張は『火の路』という作品の中で、古代の明日香にゾロアスター教が大陸から伝来し、その儀式の中で用いられる「ハオマ」と呼ばれるドラッグをここで抽出したのではないかと推理しています。仮にそうだとして、ハオマという植物をすりつぶし、水と混ぜて流して、そ
のエキス分だけを抽出するのなら、酒船石のような複雑に分岐した溝や溜である必要はないでしょう。
私は、これは水銀や金などの貴金属を選別するためのものではなかったかと考えています。明日香にはゾロアスター教とともに大陸から道教も入ってきていました。道教では、不老不死の妙薬の原料として水銀を用います。明日香から吉野あたりは水銀の産地でもあり、道教の流れを引く修験道では、この地方に産する水銀を用いた生薬が20世紀中頃まで製造されていました。
周辺の鉱山から採掘した水銀を含む鉱物を砕き、これを水と混ぜて流すことによって、比重の異なる他の貴金属とより分けたのではないかと思うのです。そして、この選別台を東西に向けることで、太陽光のもとで光が万遍なく行き渡り、光る金属を判別しやすくしていたのではないでしょうか。春分や秋分の頃であれば、太陽の運行線に溝が一致して、南中時には影がなくなるはずです。そのとき
は、水に沈む金属の色がはっきりと見分けられたでしょう。
酒船石は、その表面に彫られた溝の残留物を分析することで、これが何に使われたものかがはっきりするはずです。ただし、使われなくなってから長い年月がたち、風化もしていますので、微量な元素を検出できる設備が必要です。これは、個人ではどうしようもありませんので、専門の研究機関による分析を待つしかありません。
------聖地学講座vol16から抜粋-----
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