長野の木島平村から、東の山間に入り、急傾斜の山道を登って行くと、道は森閑とした森に呑み込まれる。はじめのうちは白樺と岳樺の混生林で、さらに標高が高くなるとブナの原生林となる。この森のブナは、どれも幹周りが2,3m以上あり、樹高もゆうに20mを越える。
東北のマタギやかつては本州北部にまで進出していたアイヌは、ブナを特別神聖な樹として崇めていた。ブナはその組織の中にタップリと水を含み、森の貯水池の役割を果たす。樹皮に触れるとしっとりとして瑞々しく、耳を当てると微かな水音がする。マタギやアイヌは、そんなブナを、森に血液を循環させる森の心臓と考えた。
一人、ブナの巨木に囲まれていると、そんな微かな森の鼓動が大地を伝わって響いてきて、自分も森の一部になったように感じられる。
この森を抜けて稜線に出ると、そこは広い草原のカヤノ平となる。
今回は、このカヤノ平の草原の真ん中にテントを張った。夜になると、満天の星が手の届くような近さにあり、大の字に寝そべって、語りかけてくるような星辰を見つめていると、宇宙の秘密に触れているような気分になる。
夜明け前に自然に目が覚め、テントの外に出る。
東の空が白んで、そこから夜の帳が開け始める。草原には地を這うように靄が立ち込めて、ところどころに残る巨木が空中に浮かんでいるように見える。
朝露がサンダル履きの足を冷たく濡らすのも気にせず、日の光が夜の帳の下から射しはじめるのを見届けていると、一瞬、あたりがまったく無音となって、夜と朝の切り替わりの瞬間を告げる。そして、一条の太陽光が靄を貫いて差し込むと、途端に鳥が目を覚まして、騒がしく鳴き始める。
このカヤノ平で迎える朝は、最高の朝の一つだ。ここで朝を迎えると、細胞の隅々にまで爽やかさが染みわたり、じんわりと生気が沸き上がってくる。癒しの場所としても、ここは最高だ。
夜明けを見届けた後、まだ陽が地平線からあまり離れないうちに荷物をまとめて、山を降りる。
本当は、野沢温泉まで奥志賀林道を辿って行きたいところだが、今年は、台風が道を寸断してしまって、来た道を戻るしかない。またブナの森を抜けながら、巨人たちに挨拶をしていく。まだ日差しが届かないこの森では、巨人たちは静かな眠りの中にある。
麓に降りると、北へ向かう。
険しい山間に棚田が開かれた飯山の山村は、この村の出身でなくても、とても懐かしい気持ちにさせてくれる。
狭い道をまた山のほうに向かって登って行くと、そのどん詰まりに馬曲温泉がある。
まだ7時前なので開いていないかと思ったが、「うちは、6時から開けてるよ」と、管理人がにこやかに、湯に浸かっていくように進めてくれる。
棚田の連なりを眼下に見下ろしながら、貸し切りの露天に浸かっていると、時間の流れが止まり、ここが日本の片田舎であることを忘れ、自分がツーリングマップルの取材という俗な目的でオートバイを走らせていることも、すっかり忘れてしまう。
名所旧跡を訪ねるでもなく、グルメを堪能するでもなく、仲間とふざけあうでもなく、ただしみじみと土地を感じるだけの旅が、ぼくは好きだ。
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