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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.39
2014年2月6日号
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◆今週の内容
1 秦氏の痕跡
・稲荷の意味
・八幡宮
2 お知らせ
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秦氏の痕跡
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昨日、冒険ライダーとして有名な賀曽利隆さんと久しぶりにお会いして、酒を酌み交わしました。もともと底抜けに明るく元気な人ですが、数日前にアフリカ縦断ツーリングから帰ってきたばかりとのことで、真っ黒に日焼けして、いつもにも増して元気で、野生の大地からエネルギーを吸収してきたことをリアルに感じさせました。
1968年にアフリカに初めて旅立った20歳の賀曽利青年は、サハラ砂漠をオートバイで越え、アフリカの最南端にまで達すると、今度はヨーロッパへ渡り、世界を一周して戻ってきます。日本人として初めてオートバイでサハラを越え、世界一周ツーリングを達成して帰国した彼は、二輪雑誌にその旅のレポートを連載し、さらに、今度は日本国内に目を向けて、「峠越え」という連載を開始します。
ちょうどこの連載が始まった頃、高校生だった私はオートバイに乗り始め、賀曽利さんの記事を毎月楽しみにして、自分も峠越えのツーリングに出かけるようになりました。そして、彼も感動したように、何でもない小さな峠を越えただけで、里の空気がガラッと変わることに驚き、地域の歴史や文化がじつに多様であることに興味を持ったのでした。
賀曽利さんは、「峠越え」の連載をきっかけに、民俗学者の宮本常一が主催していた「観光文化研究所」の研究員となります。そこで、「歩く巨人」と形容されたフィールドワークを徹底して行う宮本の研究スタイルを学び取りました。宮本常一に連なる民俗学者の弟子はたくさんいますが、その中でも一番若かった賀曽利さんは、とくに可愛がられ、今でも酒が入ると、「宮本先生に仲人をしてもらった弟子は、ぼく一人だけなんですよ」と自慢気に語ります。
「峠越え」の連載は、23年に及びましたが、雑誌社の都合により、突然打ち切られることになりました。このとき、雑誌社とも賀曽利さんとも縁のあった私は、自分のオートバイライフの原点ともいえるこの連載が終わってしまうのが残念でならず、最終回の取材に同行させてもらい、インタビュアーとして最後のまとめをさせてもらうことにしました。
それは、もう15年あまり前になりますが、今でもはっきりと細部まで思い出すことができます。富士山の裾野の忍野にあったアイヌの集落を再現したキャンプ場で、茅葺きの小屋「チセ」に泊まり、焚き火を挟んで、深夜まで峠越えの思い出を聞かせてもらいました。そして、翌日は周辺の峠をいくつか巡り、そこでも、峠を境にした日本の地域文化の変化などを語り合いました。
そのとき、一番印象的だったのが、明治以前には、峠をこちらの里から向こうの里へと越えていくいわゆる「里の民」だけでなく、稜線を渡っていく「山の民」がいて、彼らは独自の歴史と文化をずっと伝えてきていたということでした。
ふだんは、滅多に出会わない里の民と山の民が、峠ではしばしば出会うことになり、里の民からすれば考えられないスピードで山を駆け抜けていく山の民は、とても人とは思えず、それが天狗や物の怪の伝承に繋がっていきます。
賀曽利さんと山の民の話が盛り上がったことがきっかけで、その後、私は歴史の陰に埋もれた民族に興味を惹かれていきました。そんな民族の一つが、今回、前回に引き続いて紹介する秦氏です。
秦氏について記す前日に、秦氏に興味を持つきっかけを与えてくれた賀曽利さんと飲むことになったのも不思議で、つい前置きが長くなってしまいました。
前回は、古代の日本の政治と文化に大きな影響を残した渡来民「秦氏」の由来に触れましたが、今回は、秦氏の痕跡が驚くほど身近に色濃く残っている例を紹介したいと思います。
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