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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.33
2013年11月7日号
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◆今週のメニュー
1 鎌倉大仏の謎
・鶴岡八幡宮と鎌倉大仏
・大仏造立の意図
2 お知らせ
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鎌倉大仏の謎
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非常にポピュラーで、誰でもその名を知っているし、実際にそれ
を見たこともある人が大勢いるのに、では、それがどのような意図
を持って、いつ誰が作ったのかが皆目謎なものというのがけっこう
あります。
前々回のテーマに取り上げた出雲大社もしかり、そして、今回ご
紹介する鎌倉の大仏もその代表的なものです。
鎌倉の観光コースでは定番中の定番ともいえる大仏は、誰がいつ
造立したのかが不明なのです。今では吹きさらしの露仏となってい
ますが、かつては大仏殿に安置されていたことは記録に残っていま
す。台風と思われる「大風」に煽られて大仏殿が倒壊し、再建され
るもまた大風で倒壊、さらには津波が押し寄せて、大仏そのものが
土台からズレたという記録も残っています。ところが、肝心の造立
にまつわる情報は残されていないのです。
今回は、そんな鎌倉の大仏に秘められた謎をレイラインの視点か
ら解明したいと思います。
【鶴岡八幡宮と鎌倉大仏】
鎌倉幕府は、1192年に源頼朝が北条氏のバックアップによって築
いた初の武家による統一政権でした。幕府の守護神を八幡神とし、
これを祀る鶴岡八幡宮を造営して、幕府の城下である鎌倉を守る結
界を形作った話は第20回でご紹介しました。そのときは、鶴岡八幡
宮から頼朝墓、荏柄天神の三者が東西に並び、春分と秋分の太陽の
力を受け取る形になっていること、さらに、明治維新後に設けられ
た護良親王墓と鎌倉宮が、さらに東に並ぶ形で設けられ、太陽の力
を奪うような配置になっていることに触れました。
明治政府が、鎌倉幕府の形作った結界を破ったのは、鎌倉幕府が
武家政権を開いた後、明治に至るまで武士に握られた政治の実権を
天皇を中心とした公家政権に奪還して、維持する願いからでした。
護良親王は鎌倉幕府の討幕運動で活躍しながらも足利氏によって殺
害された悲運の皇族で、明治政府は鎌倉宮の祭神として護良親王を
祀り、二度と武家に政権を奪われないための天皇家の守り神とした
のでした。
詳細は20回を参照いただくとして、今回は、鎌倉幕府が仕掛けた
もう一つの結界に目を向けてみたいと思います。
承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を目指して起こ
した承久の乱は、鎌倉幕府の勝利に終わり、これ以降、武家が朝廷
の優位に立つ時代となります。
承久の乱以降、鎌倉幕府はその所在地の鎌倉を日本の政治の中心
とすべく、都市基盤と制度を整備していきます。同時に、都から陰
陽道の専門家たちが呼び寄せられて、先に挙げたような鶴岡八幡宮
を中心とした結界が設けられたほか、鶴岡八幡宮から海へと真っ直
ぐ伸びる若宮大路とこれに直行する六浦(むつら)道が整備されて、
物流と結界を兼ねた役目を担うようになります。
嘉禄元年(1225)年には、それまで大倉(現在の神奈川県鎌倉市二
階堂・西御門一帯)に置かれていた幕府の御所が鶴岡八幡宮の南に
移され、鶴岡八幡宮は守護神として御所の背後を守る重要な機能が
与えられました。
さらに、嘉禎4年(1238)には、鎌倉大仏の造営が始まり、新たな
結界が作られます。冒頭で、鎌倉大仏は、いつ誰が作ったのかが謎
だと紹介しましたが、この嘉禎4年に造られ始めた大仏は木造のも
ので、これは鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に記録が残ってい
ます。この木造の大仏を収める大仏殿は、仁治2年(1241)に上棟さ
れて、寛元元年(1243)に完成していますので、この大仏本体は上棟
以前に完成していたと思われます。木造の大仏の後に現在に残る銅
造の大仏が造られるわけですが、こちらがいつ、誰によって造られ
たのかが謎なのです。
木造の大仏もその後の銅造の大仏もともに現在の位置に置かれた
ことは確かです。そして、この位置にこそ結界の意味が秘められて
いるのです。
大仏の位置は、北緯35°19′01″ 東経139°32′09″。鎌倉幕
府の守護神である八幡神を祀る鶴岡八幡宮の位置は、北緯35°19′
34″ 東経139°33′23″。両者の位置関係を見ると、大仏から鶴
岡八幡宮は方位角61°26′で夏至の日の出の方向に一致します。そ
の逆は、方位角116°23′でこちらは冬至の入り日の方向となりま
す。つまり、両者は夏至と冬至の太陽が結ぶレイラインを形作って
いるわけです。
冬至の夕日を拝むという儀式には、太陽の再生を願うという意味
があります。鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の守護神として、冬至の入り日
の方向に大仏を置いて、これを拝することで、鎌倉幕府の命脈を保
ち続けることを祈願したのでしょう。
大仏は、結跏趺坐した膝の上で、両手の人差し指と親指を重ねあ
わせた印を結んでいます。これは『弥陀の定印(みだのじょういん)』
と呼ばれ、大仏が阿弥陀如来であることを表しています。仏と神道
の神とを関連付ける本地垂迹説では、阿弥陀如来は八幡神の化身と
されていますので、鶴岡八幡宮の祭神と大仏は同一、つまり化身で
あることを意味しています。
『吾妻鏡』では、大仏を「釈迦如来」とする記述も見られ、水戸
光圀が鎌倉の史跡を巡った時の記録である『鎌倉日記』には、盧遮
那仏という記述も見られます。これらを間違いだとする論文もあり
ますが、当時の信仰では、阿弥陀如来と盧遮那仏、釈迦如来、さら
には大日如来を同一視していましたので、単純に名称を混同してし
まったとみていいでしょう。
また、大仏から見ると相模地方第一の聖山である大山が冬至の入
り日の方向に一致し、このライン上に相模一宮の寒川神社も位置し
ています。さらには、大仏から見て冬至の日の出方向には五所神社
が位置しています。五所神社は、もともとこの地にあった三島神社
に、村内の八雲神社、諏訪神社、視女社、金毘羅宮を合祀したもの
ですが、最初に存在した三島神社は伊豆の鎮守であり、伊豆を本拠
とした北条氏縁の社であるので、やはりこれにもレイライン=結界
の意味があるといえるでしょう。
木造の大仏が造立された後、これにかわって銅造大仏がこの場所
に置かれたわけですが、その銅造大仏もはじめは今のように露座で
はなく、きちんと大仏殿に収められていました。ところが最初の大
仏殿は建武元年(1334)に台風により倒壊、さらに応安2年(1369)と
文明18年(1486)にも台風で倒壊、さらに明応4年(1495)には大地震
に続く津波で流され、同時に大仏そのものも台座からズレてしまい
ました。以降は、大仏殿は再建されることなく現在まで露座のまま
であるわけです。
何度も天災に遭いながら、この場所を一度も動かさなかったのは、
この場所に大仏を置くことに意味があったからといえそうです。
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