今年の夏はよく動きまわった。
5月から7月にかけては、伊豆半島の聖地取材に専念し、その成果を8月の後半までかけてまとめあげた。その直後から毎年恒例のツーリングマップルの実走取材に出発し、先週末までの3週間をぶっ続けで走りまわった。その距離、4600km。一日平均230km。久しぶりに本格的なツーリングだった。
振り返ってみれば、ソロで長期間ツーリングするのは、大学3年の時に二ヶ月かけて日本一周して以来、32年ぶり。キャンプ道具一式をオートバイの荷台に括りつけ、草原や海辺や高原の樹林の中でキャンプしながら旅をしていると、ひたすら自由を謳歌していた若いあの頃の思い出が浮かび上がってきた。
当時は、お金はないけれど、時間と希望はたっぷりあって、どこへ行っても風景はすべて新鮮で、出会う人たちもみな気さくで優しく、広大な未知の世界が自分を呼んでいるように感じていた。そして、「このまま一生旅を続ける人生でもいいな」と真剣に思ったものだった。
ところが、社会人としての体験を積み重ねていくうちに、若い頃の純粋な気持ちは次第に薄れてゆき、出会う風景にも感動しなくなり、ついには、無限の自由を感じた時代があったことすら忘れてしまう。
ぼくには、情熱を傾ける「聖地」や「アウトドア」というテーマがあったものの、気がつけば、旅に対して自分を強く突き動かすテーマを求める傾向が強くなり、それがない旅はひどく物足りないものに感じるようになってしまった。ときどき、若い頃の旅を思い出しても、どうして他愛もないことに感動できたのかと、冷めた気持ちで回想するようになっていた。
ツーリングマップルの実走取材の仕事は、今年で13年目となるが、ソロのオートバイツーリングという形は昔と同じでも、一度として昔の旅のような自由を感じたことはなかった。とくに、取材時期の夏が過酷な気候に見舞われているこの数年は、逆に苦痛ばかり感じ、「今年限りでこの仕事は終わりにしよう」とずっと考え続けながらオートバイを走らせていた。
ところが、今年はノルマが例年以上にきついのに、苦痛どころか、昔の旅のような自由を感じることができた。32年前の学生時代に感じた無限の自由とは完全に同じわけではないが、大きな開放感とともに、未知の世界と出会ったあのときと同じように、各地の風景と向き合うことに感動を覚えた。
どうして、今年のツーリングマップルの旅が例年とは異なるものになったのか。それは、前段階ともいえる伊豆の取材が大きく影響している。
5月から三ヶ月間の伊豆取材は、伊豆半島が太古に南の島だった痕跡や、黒潮に乗ってやってきた渡来人たちの伊豆での痕跡と彼らの出自を想像しながら旅をした。それはガイドブックや歴史書に明確に記されているようなものではなく、様々な情報の断片をかき集めて突き合わせ、さらにフィールドワークで新たな情報を集めて、また推理するという作業を繰り返していった。
出会った風景と、その風景の中に散りばめられた昔の人達の生活の跡や様々な形で残されたメッセージ、それらの意味を徹底的に考えていくうちに、風景が単なる「景色」ではなく、物語的な奥行きを持った有機的なものに感じられるようになってきた。今までの聖地を巡る旅でも同様な感覚はあったが、今回は三ヶ月の間、ほとんど伊豆だけに集中して取り組んだことによって、ほとんど「土地との対話」というレベルにまで強化された。
例えば、谷間の道を行く途中に褶曲した地層を見つけて、「これを古代の人たちなら、魔物が通り過ぎた跡だと見ただろうな」と思い、近づいてみると、そこには古い祠が意味ありげに佇んでいる。たまたま通りかかった老人にその祠のことを聞くと、役行者が魔物を封じ込めたという言い伝えを教えてくた。さらにそこは縄文時代の祭祀遺跡もあった場所で、子供の頃によく土器拾いをしたものだと。
また、海沿いの道を走っていて、漁港越しに岬を見たとき、何かが起きるという予感がした。車を停めて、外に出ると、ひんやりとした空気が海のほうから押し寄せてくる。しばらくすると、海上に真っ白い海霧が立ち込め、それが岸に向かって流れてきたかと思うと、岬の小高い丘を越えて滝のように漁港に流れ落ち始めた。ぼくの傍らを通り過ぎるドライバーたちは、この幻想的な風景に誰一人気づかない。
ネイティブアメリカンは特徴的な地形の成り立ちに擬人化した物語を当てはめ、それを砂絵で表して子から孫へと伝えてきた。オーストラリアのアボリジニも個々の風景に物語を与え、それを独特のアートで表したり、風景のネットワークとも言える「ソングライン」という叙事詩を生み出した。日本神話もその始まりは、イザナギとイザナミによる叙情的な国生みの話だ。
伊豆には「伊豆の国焼き」という創世神話がある。この話は、伊豆の変化に富んだ地形と火山活動、それに黒潮に乗ってやってきた渡来民といった要素が混合されて出来上がっている。そして、この神話は、図らずも大陸プレートの動きや火山活動のメカニズムを科学的に証明するように正確に描写している。
こうした神話的な世界認識は、科学的な分析ではなく、現代では想像のできない直感的な閃きによって生まれたものではないか。伊豆に通って古代の人間たちの世界観を想像するうちに、そんなふうに思うようになった。そして、彼らの感覚に寄り添って風景を見続けていると、自分もいつのまにか風景の中に物語を直感するようになっていた。
そんな感覚を持ってオートバイで旅してみると、見慣れた風景がまったく別のものに見えてきた。若い頃のツーリングでは、見るもの聞くものがすべて人生で初めての体験で、赤ん坊が目を開けて世界を自分の目で見始めたような感覚だった。今回は、目に見える風景が様々な物語を語りかけてきて、それがとても新鮮に感じられた。
常に体を外気に晒しているオートバイでは、気温や湿度の変化、さらには空気に含まれる微かな匂いの変化も感じ取れる。一定したエンジンのビート感はメディテーションのような効果をもたらし、感覚はより敏感になって、普段は眠っている第六感も働きやすくなる。そんなオートバイという乗り物の魅力もあらためて思い出した。
仕事としてのノルマがあり、チェックしなければならないルートや物件があって、けして自由な旅ではないけれど、移り変わっていく風景は、学生時代の旅のように新鮮で飽きることがない。
サイモン・シャーマは『風景と記憶』の冒頭で、「風景はそれが発見されるからこそ風景になる」と記している。ただ漫然と眺めているだけでは、風景は日常に埋没した景色でしかない。風景を見て、そこに記憶されている地球の営みや人の歴史を浮かび上がらせてこそそれは本物の風景となる。
鎌田東二は『聖なる場所の記憶』の中で、「聖なる場所は記憶を持っている。そこにはある特殊な情報とレコードとメモリーがコンデンスされている。シャーマンと呼ばれた人々はそのことを伝承や神話や儀礼や体験を通してよく知っている」と記している。これはまさに、ぼくが伊豆の取材を通して強烈に感じたことだ。オートバイを走らせることでもたらされるある種の意識変容状態は、シャーマンの感覚に近いものといえる。
さて、この秋はまた伊豆に戻って、今度は土地と対話するツアーを企画していく。
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