昔はテントのことを「天幕」と言った。そして、天幕を張ってキャンプすることを「幕営(ばくえい)」と言った。
そんな言い方が若い時に身についてしまったので、同じような年代の友人とキャンプするときには「天幕どうする?」なんて聞いてしまい、キャンプサイト(これも古い言い方だと「幕営地」なのだが)に着いて、山小屋で手続きするときにも、「幕営したいんですが」と口をついてしまう。
「キャンプ」というと、なんだかそれ自体が目的の「軟派」な雰囲気を感じてしまう。「幕営」は、登山が主目的であり、天幕を張って泊まるのはあくまでも手段であるり、とにかくミニマムな装備で、というストイックなイメージがある。
だいぶ昔に、「テントでキャンプするのっていいよね」と、あまりアウトドアには縁がなさそうな人に言われて、「いや、好き好んでキャンプしているわけではなくて、金がないからキャンプするんですよ。金があれば上高地帝国ホテルに泊まります」なんて、当て付けがましく答えたことがあった。今にすれば、妙に突っ張っていた自分が恥ずかしい限りなのだが……。
その名も「天幕」と題した一冊の大判の本がある。
梅棹忠夫監修のこの本を開くと、世界中の遊牧民や狩猟民の移動式住居と生活物資、そしてライフスタイルが紹介されている。彼らに共通するのは、とにかくミニマルであることだ。本当に必要な装備しか持たず、しかもその装備は軽くコンパクトで汎用性の高いものに限られる。
モンゴルのパオのように比較的長期間同じ場所に滞在する住居と、北アフリカの砂漠地帯に暮らす民族たちのタープのような屋根だけの住居ではだいぶ形態は違うけれど、動物の毛皮を素材として、近代的な建物のように内と外を隔絶せず、外の気配が内部で常に感じられるという点では共通している。持ち物がミニマルであるばかりでなく、住居そのものが自然との隔絶という点でミニマルであって、そのあたりの自然と共生する意識がハードハウスに住むぼくたちとは根本的に違ってくると思う。
モンゴルのパオやカザフのユルト、そしてネイティヴアメリカンのティピなどは、天井の中心部から空が見える構造になっている。
それは「煙抜き」という実用的な機能を果たすスタイルでもあるのだけれど、「天国の目」と呼ばれ、そこを通して宇宙と繋がっているとされている。この天幕内部の中心には煮炊きをするための炉が設けられている。その火を外部のものが触るのは許されない。それは、火を焚くことによって、煙が立ち昇り、それが天まで届いて、この天幕の中に暮らす家族を庇護すると考えるからだ。
だが、こうした遊牧の民たちは、都市化の波に飲まれ、定住を促進する政府の政策によって、年々少なくなっている。この本で紹介されている天幕も、中にはもう自然の中ではなく博物館の展示でしか見られ無くなってしまったものもある。
天幕に暮らす遊牧民がいなくなり、「天幕」や「幕営」という言葉に郷愁を持つ人間もいなくなった時、この世は、いったいどんな世界になっているのだろう。
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