これは、2009年にいちばん感銘を受けた本だった。
『「まちがっている」と「自明のことだ」という二つの意見に分かれる話題はどんなものであれ、いいテーマに違いない』 という冒頭の言葉から、いきなり強烈なインパクトがある。思わず、「さすが、WIED編集長!!」と喝采してしまう。
クリス・アンダーソンは、「ロングテール」を提唱して、 誰もが表現できなかったネット時代のニッチな商品やコンテンツが注目されるコンシューマーの消費行動と傾向を喝破したが、今度は、 商品やサービスが「フリー」に向かっていく、ネオ資本主義社会の構造を披露した。
今までの手に取れる「実物」をやり取りする経済をアトム経済と呼び、 ネットを介してデータ=ビットをやりとりする経済をビット経済と呼ぶ。
乱暴に要約してしまうと、ビット経済では、輸送コストや在庫コスト、それに関わる人員コストなどがほとんどいらず、 限界費用は極限まで下がっていく。そこに利益を求めるのではなく、限界費用の最低限つまりフリーにまで押し下げて、 それで人の注目とアクセスを集め、「内部相互補助」によって、 他の場面で収益を上げる構造を作れと説く。
今、様々なものがビットに置き換えられ、フリー化しているが、その流れは止めることはできない。だったら、それを積極的に利用して、 プロモーションを行い、ビット化できないものの価値を高めていけばいい。
クリス・アンダーソンは、自らのその理論を実践するために、この本をネット上に無料で公開した。期間限定ではあったけれど、 30万ダウンロードを記録し、印刷版は全世界でそれよりも遥かに多い売上を記録した。
紙の書籍としてもベストセラーとなったのは、彼の巧みな戦略の成果だが、本来、彼としては、「フリー」 というビットコンテンツが大きな話題を呼ぶことで、自らの講演活動の価値を高めるのが真の意図だった。 元々ネームバリューの非常に高い彼だからこそ、無料で公開したコンテンツの紙書籍版もベストセラーになったのだといえる。
じつは、ぼくも彼に習って、 新たに出版する本を電子ブックのコンテンツとして無料で配布もしくは電子ブックリーダーにバンドルするつもりで準備を進めていた。
アメリカでは2007年にAmazonがKindleをリリースして、 電子ブックを専用のリーダーで読むという読書スタイルがすっかり定着した。日本では、 昨年の終盤になってようやくKindleが正式にアマゾンの日本法人からリリースされたが、 まだオフィシャルとしての日本語対応はできておらず、日本語のコンテンツも皆無に近い状況だった。
それが、この春には正式な日本語対応モデルが登場すると噂され、それを機に日本でも電子ブックリーダーが普及し始めることになれば、 日本語コンテンツとして先鞭をつければ、高いプロモーション効果が期待できると考えたわけだ。
ところが、年が明けると、AppleがiPadを発表し、電子ブックリーダーの世界が、世界的にも一気に広がる気配となってきた。
Kindleだけであったら、まだ日本国内ではマニアックなデバイスで、コンテンツを無料で公開しても、 そこで失う読者以上のプロモーション効果が見込める。だが、iPadも含めて、 一気に本格化する電子ブック市場にフリーの原理を持ち込んでしまったら、紙の書籍の収益を落とすことは間違いない……クリス・ アンダーソンほどの知名度があれば別だろうが。
そして、何よりも、印刷と流通というアトムな出版の世界ではもっともコストがかかる部分がカットできて、 限界費用が安い電子出版では、当然のように定価を低くすることができ、中間業者がないぶんマージンも少なく、 最終的な利益は紙の出版よりも大きくなる。
そんな状況が見えてきて、紙の書籍のプロモーションとして電子ブックを「フリー」 のプロモーションツールとして利用するという発想は切り替えることにした。 紙の出版のプロモーションツールとして電子ブックを使うのではなく、電子ブックをメインのコンテンツとして、ここに収益の主軸を置き、 紙の書籍は逆に電子ブックを補完するような位置づけにする。
クリス・アンダーソンも、これからのフリーをベースにしたビジネスは、社会の変化に合わせて、 柔軟にシフトしていかなければならない。ステレオタイプになるなと説くが、彼の理論を実践しようとして、まさに、 そんなめまぐるしい変化に対応するケーススタディを行うことになったわけだ。
電子出版が世界的潮流なる兆しを見せ、既存の出版社は、今まで通りの利益を確保したい、 あるいは出版の世界での自分たちの既得権益をなんとか守りたいと必死になっている。
「フリー」では、電子出版が主流になる世界では、出版社は既得権益にしがみつくことをやめ、 より創造的な仕事に特化していくべきだとする。また、ジャーナリズムもプロとアマチュアの境界が曖昧になりつつあり、 プロのジャーナリストの仕事は、アマチュアジャーナリストの訓練なども含むものへと広がっていくと予言する。
あらかじめ「フリー」を読み、クリス・アンダーソンの視点に感銘していたおかげで、 これから出版界を洗う荒波も嬉々としてサーフィンしていけそうだ。
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