古代鉱山技術者集団
**四国三郎=吉野川がゆったりと蛇行し、俯瞰してみると勇ましい昇龍のように見える。古代、 朝廷の祭祀に深い関わりを持った阿波忌部氏は、四国山地に抱かれたこの地に本拠を置いていた**
12月に入って最初の日曜日、徳島県で阿波忌部氏を訪ねるツアーに参加した。吉野川中流域を本拠とした阿波忌部氏は、 朝廷との繋がりの深さ、 古代の鉱山開発にまつわる技術者集団としての謎など、とても興味深い歴史を持つ。
先月、OBTブログのエントリーで、 谷川健一の『青銅の神の足跡』を紹介したが、その中でも、阿波忌部の里は数少ない銅鐸の発掘される土地として、 また高越銅山という古代に開かれた鉱山が生み出した里として触れられている。
古代の鉱山技術者=タタラ製鉄の民というと、宮崎駿の『もののけ姫』に描かれたような山の木々を燃料として伐採し尽くし、 土地を掘り返して荒廃させる自然破壊者のようなイメージがあるが、それは、 近代以降の大規模鉱山開発とそれにともなう公害のイメージで描かれたもので、実際は乱開発とは縁遠い、山の自然とうまく共生していた 「山の民」だった。
東北の民話などにしばしば登場する炭焼藤太や義経を平泉に導いた金売吉次といった人物もその出自は古代から続く鉱山技術者に当たる。 彼らは、全国の山野を知り尽くし、尾根を辿って自由自在に往来していた。里に住む農耕民にとっては、 鬼神の住処である山を自由に往来する彼らは、天狗や妖怪として映った。
ぼくは、個人的にレイラインという古代の方位にまつわる技術の痕跡を調べているが、 その調査の過程で、古代の鉱山開発や金属精錬に関係した民族の痕跡に出くわすことが非常に多い。彼らは、 正確な方位測定や位置を特定する技術を持っていたが、それは、 世界中の巨石文明に共通して見られるレイラインをベースにしていたように思える。
今回のツアーは、阿波忌部の鉱山技術者としての側面ではなく、 2000年前にこの地に住み着いて以来営々と受け継がれてきた持続的な農業と、 朝廷への麻や農産物の献上者としての忌部の歴史を訪ねることがメインテーマだった。だが、阿波忌部について長年研究を重ね、 『日本の建国と阿波忌部』の著作もある林博章氏がガイドをしてくださるとのことで、期待をもって徳島へと出かけて行った。
**ツアーは、鳴門市にある大麻比古神社からスタートした。 阿波忌部氏が朝廷に麻を献上したことに因んだ社だが、大麻は「アメノマ」という訓読もあり、それは「天目」と共通し、 鉱山技術の神であり、同じ忌部の流れを汲む筑紫・伊勢忌部の祖神である「天目一箇神」にも繋がる**
鳴門市の大麻比古神社に集合した15名あまりの一行は、車に分乗して一路西へ。阿波忌部の本拠地だった吉野川中流域へと向かう。
今回のガイド役である林氏は、この忌部の里に散らばる大小の神社、古墳、この地方に産する青石(緑泥片岩)を用いたメンヒル(立石)などの分布を詳細に調査している。
東北地方には、 縄文時代中期に作られたストーンサークルが各地に存在し、さらにそれと関係する巨石遺構も残る。それらは、 明らかに古代の太陽信仰をベースとしていて、冬至、夏至、春分秋分など一年の区切りの日の太陽の運行に合わせて配置されている。 そして、それらの「聖地」は、後に東北地方で力を持ったアラハバキ神を信仰する鉱山技術の民(炭焼藤太や金売吉次は、 まさにこの集団に属していた)にとっても聖地とされた。
阿波忌部氏もメンヒルやドルメンを造り、 それを各地に配置したと聞いて、東北の鉱山技術の民に繋がる何かがあるのではないかと感じた。
循環型農業のルーツ
ツアーは、まず吉野川流域の平野に点在する神社を巡った。 四国の脊梁山地に南北を挟まれて流れる吉野川は、広い谷の端から端まで幅を一杯に使って、大きく蛇行する。 神社の多くが水神である龍神を祀るが、それは、この川が「四国三郎」と呼ばれた暴れ川であったことの名残りだろう。
流域にある神社は、この暴れ川の氾濫によって、 元の場所から流されてしまったのか、「式内社」とされる社も区画整理された農地の隅にひっそりと佇む小さな社が多かった。
いまだに昔ながらの生活を続ける阿波忌部の末裔は、吉野川流域よりも、 その南に聳える四国山地に分け入った山の中腹に暮らしている。
つづら折れの細い急斜面を上っていくと、 とても人里などあるとは思えない山奥に、突如として集落が現れる。南信州の上村(現在は飯田市に組み込まれている)は、 南アルプスの前衛である標高2000mの山並みに抱かれた小さな村だが、 ここも標高1000mから1500mの山腹に集落が貼りつくように点在する。「日本のチロル」 とも呼ばれる独特な風景を見せているが、忌部の山里は、驚くほど上村の風景に似ている。
車のハンドルを握るe4プロジェクトのリーダー森田氏は、「どうして、 こんな不便な山の上にわざわざ住んだんでしょうね。麓まで買い物に行ったら、また登るのは大変ですよ」と呆れたように呟く。
食料や生活必需品などの生産地が各地に分散し、 商業地域の平野で生活することが当たり前の現代の人間にとっては、山間の里は交通の不便な貧しい土地のようにしか見えないが、 もともと山の民は、 里に降りるときは自分たちの生産した金属加工品や木地物あるいは狩猟の獲物などを里に売りに行ったり物々交換したりするときだけだった。
彼らの主要な交通路は、山の尾根筋であって、 その尾根筋に近い山の中腹以上の場所に住んでいたほうが都合が良かった。
「この忌部の里では、昔は、 斜面の上のほうに住んでいる人ほど裕福だったんですよ。尾根筋を移動する彼らにとっては、 その幹線路に近い方が便利なわけですからね」と、林氏。
**標高200~600m付近に集落を形作る忌部の里**
**この地方特産の「青石」をブロック状に加工して積み上げ、急斜面に棚を作り上げる。 整然とした石垣は見事**
集落は、この地方特産の青石を積み上げて見事な棚状の畑を造り、 稜線付近に湧き出す水を循環させている。
今回、 林氏とともにガイド役を努めてくださった忌部の農業に詳しい野田靖之氏によれば、もともと焼畑の農地で、 斜面の最上部に茅の原を作り、秋に生育した茅を刈り取って落ち葉などとブレンドして畑に敷き詰めて肥料としたのだという。 これによって、作物が栄養を吸収するのを助ける根粒菌が根に付くと同時に、土壌をソフトに保って作物が根を張りやすくなる。
さらに粟などの雑穀と根菜類、豆類などを輪作していくことによって、 新たに山を切り開かなくても、土地は痩せることなく、循環的な農業が可能となる。 種を撒いた上にまた茅や木の葉の層を作ることで、鳥に種を啄まれてしまうことも防げる。
ぼくたちが訪ねたとき、畑で作業していたおばあさんが、 掘り出したばかりの大根を切り分けて味見させてくれた。それは瑞々しく甘く、目を瞑ってじっくり味わうと、梨のようだった。
阿波徳島といえば、以前e4でも紹介したように、 地域で排出される農業副産物をうまく循環させて理想的な有機農業を展開しているが(『ツルを呼ぶお米』 、『アースワーム(ミミズ)が理想的な土を作る --阿波・ 循環型有機農法の試み--』)、地域の農家や畜産業者、 工場などが協力しあって地域環境に適合した農業を形作っていく精神のルーツは、案外このようなところにあるのかもしれない。
晩秋の午後、現在では幹線道路が走り、 商店街がある谷間はすでに日が落ちて寒風が吹き抜けているが、山の頂近くの集落には、 まだ明るい日が差し込んで穏やかに温もっている。傍らには湧き出した清水が流れ、 身の回りで収穫した健康的な作物だけで自給自足できる。吹き渡る爽やかな風を受けながら、広い視界で世界を見渡して暮らす。 あくせくと麓で暮らすのと、こうした山の暮らしと、どちらが幸せなのかと考えこまされてしまう……。
**典型的な阿波忌部の畑地構成。斜面の最上部に茅の原があり、 その下に段々畑が続く**
**茅を刈り取り、運び下ろす。今でも人力が頼り**
**刈り取った茅は、畑に置かれて、乾燥・ 熟成される**
**茅を粉砕し、木の葉とブレンドして、 畑に鋤き込む**
**下流域からの上昇気流が適度な湿気を含んでいて、しかも霜が降りるのを防いでくれるので、 ここでは良質なお茶も採れる。茶畑の横には桜の木が植えられ、春には山の神が降臨する依代となる…… 山の民ならではのランドスケープ**
**谷間はすっかり日が暮れてしまっても、集落にはまだ暖かい日が指し続ける。 おばあさんは茅で干し柿や大根を吊るす縄をなっている**
メンヒルと神社が指し示すもの
今回のツアーでもっとも関心のあったメンヒルは、忌部の里全体では1000基以上も確認されているという。実際、 集落の片隅にも庚申塚のように据えられた特徴的な青石があり、 畑の隅には立石の上に蓋をしたような格好のいわゆるドルメン状のものまであって、これは地元では「山の神」や「かまどさん」 と呼ばれているという。
急斜面に石垣を築いて棚畑を形作る技術を見れば、忌部の人たちが石を扱うことに長けていたことは一目瞭然だ。 山地を渉猟して鉱物資源を探し、さらにはタタラを築いて金属を精錬していた民族ならば、石の扱いに慣れているのは当たり前ともいえる。
だが、おびただしい数のメンヒルを築いた目的は何だろう。
実際にそれを目にするまでは、 ぼくはタタラを行う際に炉に吹き込む風を最大限にできるように山から吹き降ろす風の通り道を示した一種の道標のように用いられていたのではないかと想像していた。
だが、集落に点在するメンヒルを見る限り、そうした法則性があるようには見えない。もっとも、後代にタタラを行わなくなって、 その意味が忘れられ、一般的な道祖神や塞の神に姿を変えたとも考えられる。
奥深い山中には、人の背丈を越える大規模なメンヒルが昔のままに残されているというが、 残念ながら今回はそこまで調べることはできなかった。
**集落のあちこちに見られるメンヒル**
**畑の端にはドルメン様の構造物がある。地元では「山の神」、「かまどさん」などと呼ばれる。修験の 「岩屋」のようにも見える**
ツアーの最後に、忌部でももっとも古い集落の一つ、伊良原を訪ねた。ここには、忌部神社の里宮である「御所神社」と、 典型的な巨石遺構の奥宮があるという。
日の暮れる前に奥宮だけでも確認したいと、急斜面をあえぎながら上り詰める。
そこには、むき出しになった岩盤の上に巨岩を据えた大規模なドルメンと、そから西に向かって築かれた石垣があった。 いずれも里で見たものとは異なる大きな岩を加工したもので、正確に南北線を指し示していた。
里宮に当たる御所神社は方位角56°方向で、この地方の夏至の太陽が上る方向60°に近い。地形を考えると、ほぼぴったり、 里宮方向から奥宮へ向かって夏至の太陽の朝日が差し込んできたのではないだろうか。
**伊良原集落の背後の稜線上にある忌部神社奥社。 岩盤に巨岩を載せた典型的なドルメン**
**奥社のドルメンから正確に西に向かって石垣のような構造物が続く**
**石垣の断面。すっぱりと南北方向に切り取られている**
この忌部神社奥社から降りてきたところで夕暮れを迎え、今回のツアーは終了となった。 阿波忌部の生活や文化のまだほんの触りを垣間見ただけだが、2000年前から続けられてきた循環型農業にしろ、石にまつわる文化にしろ、 そこに秘められた叡智をもっと深く探求してみたい思いに駆られた。
今回は阿波忌部の鉱山・金属精錬にまつわる話を詳しく聞くことができなかったが、ツアー後の雑談の中で、 武田信玄に縁のある人物が戦国時代にこの地にやってきて、その末裔が今でも武田姓を名乗っているという話を聞いた。
武田信玄といえば、独自の鉱山技術者集団「金山衆」を配下として、精力的に金山開発を行った。武田の戦費は、 彼らが開発した金山がもたらしたといわれる。金山衆は武田の本拠地である甲斐の人間ではなく、東北地方からやってきたと伝えられている。
東北もまた、大規模ストーンサークルが点在し、鉱山の神であるアラハバキ信仰と結びついた巨石遺構が残る土地だ。
山の民のコネクションは、今の我々が考えるよりも遥かにスケールの大きなものだったのかもしれない。
ツアーの翌日、忌部にとっての総社がある種穂山を訪ねた。
ここは、阿波忌部の祖神である天日鷲神(あめのひわしのみこと)が降臨したとされる山で、頂上には種穂忌部神社が鎮座する。
駐車場から800m、胸突き八丁の坂を息を切らせて登りつくと、冒頭に掲げたような吉野川の優美な蛇行が眼下に広がる。ここからは、 阿波忌部の本拠である吉野川中流域を一望できると同時に、蛇行する吉野川の勇姿が都へと駆け登っていく昇龍のように見える。
この景色を眺めながら、阿波忌部の人たちは何を思っていたのだろうか。
阿波忌部は、古代から中世にかけての朝廷での仏教の国教化と中臣=藤原氏の台頭によって、表舞台では次第に影が薄くなっていくが、 その命脈はしっかりと保たれ、明治以降、再び政治の表舞台に登場する。近年では、三木武夫、後藤田正晴といった徳島出身の政治家が、 まさに阿波忌部の血を引いている。
種穂山の背後には優美な三角錐のスカイラインを見せる高越(こうつ)山が聳える。この山は近代まで銅と鉄を産する鉱山として栄えた。 また、この山は修験道のメッカとしても知られ、空海も修行した。地元では、空海は高野山をこの山に築こうとしていたと伝えられている。
空海もまた鉱山についての知識に長け、西日本各地に水銀の鉱脈を探し求めた。そして、 優良な水銀鉱脈を持つ現在の高野山を真言宗の本山とした。
阿波には、まだまだ秘められた謎と古代の叡智が眠っていそうだ。
**阿波忌部の祖神、天日鷲神を祀る種穂忌部神社。種穂山自体が御神体山とされ、 大鳥居は本殿のように山を仰ぐ**
今回のツアーでは、いつもレイラインハンティングを行うときのように、GPSを持参して、各物件の正確な場所をプロットした。 そのデータをデジタルマップに転送すると、面白い事実に気がついた。
そこには、夏至の太陽を指す遺跡と神社の配置が浮かび上がっていた。
**ツアーの途中で気づいた忌部神社奥社(巨石遺構)と他の物件との位置関係**
**俯瞰してみると、さらに大きな構造が見えてくる**
**上の図の白人神社と人名神社の部分をクローズアップすると……**
**白人神社の南西に位置する神明神社。「神社」とされているが、 その姿は古墳か巨石文化に関係する遺構のように見える。この長辺が白人神社を指し、 同時に夏至の日の出方向を向いている**
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