いつ頃からか、オルタナティヴなものやフラジャイルなモノに魅かれるようになった。 政治的な闘争に敗れて歴史の闇に身を潜めた人間たちや、 デファクトスタンダードとなった物事の影でそれらより明らかに優れていながら埋没していってしまった事象……それらは、 しかし完全にこの世から消え去ってしまったのではなく、オルタナティヴ、フラジャイルなモノとして、息を潜めながら命脈を保ってきた。
今、スタンダードだと信じてきた物事が砂上楼閣のように崩れはじめ、潜んでいたモノたちが復権する兆しを見せている。
20世紀初頭には内燃機関を動力とする自動車と電気を動力とする自動車が拮抗していたが、 たまたま創発の機会に恵まれた内燃機関の自動車がデファクトスタンダードとなった。だが、ほぼ100年を経て、 一気にオルタナティヴであった電気自動車が内燃機関にとって変わろうとしている。
この一カ月あまり、とある環境系のプロジェクトに関わるために、最新の環境技術の情報を集めるのと並行して、 自分が肩入れするオルタナティヴなモノやフラジャイルなモノが、 環境コンシャスな社会を支える思想や理論としてデファクトスタンダードに成り得るのではないかと、様々なテクストに当たり直していた。
例えば、谷川健一が掘り起こした日本文化の基層に潜む『魔』という感覚やマジカルな思想と技術を持っていた鉱山技術の民たち…… 合理主義では説明できないそんなものの中に、環境問題の解決に繋がる糸口になるものがある気がする。
環境問題を合理性や科学的見地から考えることももちろん大切だが、一方で、人間が自然の中でどのような位置を占めているのか、 自然を畏れなくなってしまった現代人の感覚を離れて、 自然が畏れ多い存在であった古代や中世の人間たちのオルタナティヴでフラジャイルな感覚を思い出しつつ考えてみる必要があると思う。
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