積ん読資料がもたらすセレンディピティの重要性をあらためて認識
最近、レイラインハンティングの手法を応用した地域振興のリサーチで相談を受けることが多くなった、と以前書いたが、今度は秩父のリサーチの話が舞い込んできた。
秩父といえば、三峯神社をコアにした狼信仰や秩父巡礼の34観音、産鉄とタタラ製鉄、秩父往還などの古街道等々、興味をそそるテーマがたくさんある。今まで「観光」という観点からは少し外れていたそうした伝統的なテーマを、レイラインハンティングの手法を使って、アクティビティ的に楽しめるプログラムを作り上げていくことになる。
それはともかく、個人的に秩父にはじっくりと取り組んでみたいテーマが一つあった。それは、江戸と金沢を最短で結ぶ「加賀の隠し路」という話。この路は加賀藩の隠密が情報をいち早く伝達するために使ったり、加賀の殿様が江戸詰めのときに不測の事態が起こった場合に避難路として密かに整備されていたとされるものだが、その存在が実際に確認されているわけではない。
以前、何かで読んだか、人から聞いたかした話が印象に残り、その後、ずっと気になっていた。幾度かネットで調べてみたりしたが、有力な情報を見つけることができなかった。そんな得体のしれないものなのに、どうも執着してしまう。こんなときは、必ず何かがある。レイラインなどという得体のしれないものをずっと追いかけてきたせいなのか、この直感が当たることが多い。
この「隠し路」なるものが本当にあったとしたら、ちょうど秩父の中心を南北に貫いているはずで、秩父を重点的に調べれば、その痕跡が見つかるはずだ。と、思いつつ、出典もはっきりしない話しなので、何から手をつけるべきかわからず、そのままになっていた。そんなところに、秩父のリサーチの仕事が入り、秩父の歴史を調べはじめた途端に、この「隠し路」の話の出典に行き当たった。
その出典というのは柳田国男だった。手元にあったちくま文庫の柳田国男全集第二巻『東国古道記』の中に、そのものズバリの「加賀様の隠し路」というタイトルの一文があった。たぶん、以前読んだ時に印象に残り、「加賀の隠し路」と中途半端に記憶しため、後でネットで調べてもヒットしなかったのだろう。
ただし、柳田もこれは自分で調査したものではなく、山中共古からかつて聞いた話として紹介している。「山中さんの話では、その路筋には若干の距離を隔てて、相応な手当がしてあった。たとえば村の片脇に観音・薬師の御堂があって、その建立には無名氏の寄進があった。堂の仏壇の下は塗籠(ぬりごめ)になっていて、その中には一通りの椀家具が入れてあった。そういうのを辿って行くと、おおよその道筋は判るというような話であった」。さらに、柳田なりに、佐々成政の佐良佐良越えの逸話や御岳道者が使った路などを引き合いに出して、いろいろと推理している。そして、柳田も機会を作って、調査してみたいと記す。
柳田は、この「加賀様の隠し路」を実際に調査することはできずに終わり、柳田がこの一文を記したときからは、もう長い時間が経ってしまったが、まだ、秩父には手がかりが残っていると思う。秩父は朝廷と深い関係にあったり、秩父霊場が古くに整備されたりしたため、古い資料や文物が今でも豊富に残されている。もちろん、柳田の時代のように故事を記憶している人はいなくなり、資料も多少は散逸しただろうけれど、それでも手がかりはかなり残されているように思える。
そんなわけで、一般的なところからだいぶマニアックな方向へと興味のフォーカスが絞られてきてしまったが、逆に、網羅的に歴史や文化を調べるよりも絞りこんだテーマを追っていけば、細菌が増殖するように歴史や文化についても理解が広がっていくので、これでいいと思う。
しかし、最近は資料の山に埋もれるような状態になってきて、しばしば、これをデジタルデータとして取り込んでスマートにしたいとも思うけれど、今回のようなセレンディビティが起こると、何もかもデジタル化すればいいというものではないなと、あらためて感じ入らされてしまう。
もちろんレイラインハンティングでは科学的手法も欠かせない。磁気異常データを見ると、秩父の聖地が異常分布に符合していることが確認できる。このあたりからも、「隠し路」のルートを類推していく。
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