**桜は、「サ=田の神(水分神)」+「クラ=依代」という意味で、春に、山から降りてきた神が、里の田端にある桜の木に宿るとされた**
**若狭神宮寺と枝垂れ桜。神道が整備されるにしたがって、里に社が置かれるようになる。神宮寺は神仏習合の寺で、神社と同質のものといえる**
山の神・水分神
桜の季節になるとはっきりと想い出す光景がある。
いつそこに居たのか、どうやって行ったのか、そして、それがどこであるのかはまったくわからないのだけれど、確かに、過去にそこに行き、目の前の光景にやすらぎと清々しさを感じていたという記憶ははっきりしている。
緩やかな起伏を描く山並みがはるか彼方まで見渡せる高原の一角で、田植え直前の鋤き均された田が広がっている。ぼくはその田の畦に立っている。足元にはツクシとイタドリが元気よく土の中から伸び上がって、長い毛足の絨毯のように畦を覆っている。
そして、ぼくが立つ畦の先には、今ちょうど満開を迎えた大きな桜の木がある。その隣には大きな藁葺き屋根の家があり、暖かい春の日差しが注ぐ庭先で割烹着姿の老女がオカッパ頭の赤い半纏を着た幼女を遊ばせている。この長閑な風景の中で、藁葺き屋根の天辺を越える大きさの桜は、祖母と孫をにこやかに笑いながら見守っているように見える。ぼく自身もその光景に心和み、思わず笑みが漏れる。そして、満開の桜と自分が同じ気分でいるかのように思え、この桜に友人同士のような親しみを覚える。
長い間、桜とぼくはともに里に訪れた春を寿いでいた。
現実なのか幻なのか定かではないが、そんな記憶が鮮やかなものだから、満開の桜を見ると、ただ華やかで美しく感じるだけでなく、春の到来を歓喜する桜と想いをともにして寄り添っているような気がするのだ。
祈りの風景ダイジェスト版の掲載は終了しました。続きは下記電子書籍版『祈りの風景』にて
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