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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.281
2024年3月7日号
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◆今回の内容
○シンボルと聖地…意識を拡張するということ
・日常の「意識」を抜け出すこと
・シンボルと聖地
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シンボルと聖地…意識を拡張するということ
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毎年、この時期になると、憂鬱な気分になると書いているような気がしますが、今年もまた花粉症に確定申告と、おなじみの憂鬱の種のおかげで想像力まで萎縮してしまい、さて、今回の聖地学のテーマは何にしようかと考えあぐねていました。
そんな中、ぼんやりと本棚を見ていて、ふと目についたのはコリン・ウイルソンの『オカルト』でした。河出文庫の上下巻合わせて1100ページあまりの大著です。それを見るなり、「そうだ! この本の内容をベースに、人間が倦怠や塞ぎの虫を克服して、前向きな気持ちを持てるという話と、聖地がそういう気持ちを誘発する場所でもあるという話にしよう」とたちまち思いつきました。
すると不思議なもので、そんな発想が浮かんだだけで憂鬱な気持ちは薄れ、この本でウイルソンが語っている人間の精神の進化についての話が蘇ってきました。本国のイギリスで出版されたのが1971年で、邦訳は1973年。私がはじめて手にとって読んだのは、たしか1981年か82年頃だったと思います。単行本は学生の身としては高価で手が出ず、大学の図書館で借りて何度も読み返したのを覚えています。
今手元にある文庫本は、奥付を見ると1995年発行の初版ですから、これももう30年あまり前のものになります。原本が出版されてじつに半世紀以上経つわけですが、その内容はまったく古くなっていないばかりか、世界中が逼塞感で窒息しそうになっている今だからこそかえってここで語られるオプティミズムが重要になっていると思います。
タイトルから単純に判断すると、微妙な内容に思われるかもしれません。しかし、「オカルト」といっても、日本で使われているようないかがわしい意味ではなく、本来の「秘められたるもの」という意味です。ウイルソンはさらに懐疑主義的な立場を崩さずに様々な事例をあげて、オカルト的なものに意味があるのではなく、オカルト的なものに惹かれ、刺激される人間の心が精神の進化の新たな可能性を秘めていると示唆しています。
ウイルソンの著作の多くに、読んでいるうちに気持ちが高揚してきて、シンクロニシティを引き起こすような効果があります(このウイルソンの著作の持つ力のほうがよほど「オカルト」という気がしますが)。
久しぶりにこの『オカルト』を読み返し、ユングが錬金術の本当の意味に気づいた経緯を記した部分にラインを引いて、その写真を何気なくSNSにアップしました。すると、すぐに友人から「先週から、ちょうどデミアン→ユングの錬金術の本を再読していたところで、シンクロにびっくりしました」というコメントが入りました。
『デミアン』はヘルマン・ヘッセの作品ですが、ウイルソンはデビュー作の『アウトサイダー』でヘッセのこともアウトサイダーの一人として取り上げ、『デミアン』から『シッダールタ』『車輪の下』と続くヘッセの自己探求とその表現の意味を分析しています。コメントをくれた彼女は、『オカルト』を読んだことはなく、デミアン→ユングの錬金術という選択もまったく偶然でした。
それから、能登の地震の直後に配信したこの講座の第277回で、拙著『レイラインハンター』の「能登・イルカ伝説と泰澄」という話を取り上げましたが、これにもシンクロめいた偶然が起こりました。
この章では、活断層と寄りイルカの関連性を主題として、能登にある縄文時代の真脇遺跡でイルカが祀られていた可能性を考察しました。真脇遺跡からは大量のイルカの骨が発掘されています。その中には、特別な装飾が施されたものがあり、食用にされていただけでなく、アイヌのクマ送り「イヨマンテ」のような「イルカ送り」とでも呼ぶべき祭りが行われていた可能性が高いと推定されています。そこで私は、イルカを呼び寄せるシャーマンの存在に触れました。
イルカ呼びのシャーマンの話は、いくつかのエピソードの記憶があったのですが、具体的な出典としてはライアル・ワトソンの著作しか思い浮かばず、出典不詳として章を締めくくりました。なにしろワトソンは、彼が書いた「百匹目のサル」という話が膾炙した後、捏造話だと発覚して完全に信用を失いましたから、彼の著作にイルカ呼びのシャーマンの話があっても、それを出典とすることはできません。
出典が曖昧なままだったことがずっと気になっていたのですが、ウイルソンの『オカルト』の中に、それが明記されていたのです。それは、南太平洋のギルバート諸島(現在のキリバス)の弁務官だったアーサー・グリンブルという人が”A Pattern of Islands (邦題『島での日々』)”に記した逸話でした。
グリンブルは、イルカ呼びのシャーマンがいるという「クマ村」に招かれ、そこで、シャーマンは、夢の最中に霊が肉体から抜け出て、西の水平線の下にいるイルカ族を捜し出し、村で行なわれる祝宴に招待するのだと説明されてから、彼も祝宴に立ち会うことになります。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.280
2024年2月15日号
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◆今回の内容
○天災と日本精神・文化
・夢うつつのうつつ
・「木組み」の世界観
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天災と日本精神・文化
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日本文化の根底には、「儚さ」や「無常観」の思想があるといわれます。「形あるものはいずれ壊れる」「盛者必衰」そして「色即是空空即是色」。それらは、究極的な諦念に繋がっていますが、その諦念は虚無感へつながるものではなく、いったん「どうしようもない」と諦めた後に、じわじわと復活をはたしていきます。そして、また無常や無情に出会い、いったんは諦めるけれど、再び立ち上がってくる……。
そうした日本独特の「儚さ」や「無常観」の感覚がどうして生まれたのか。それは、災害の時代を迎えた今だからこそ、よく分かるような気がします。1995年の阪神淡路大震災にはじまり、中越地震、東日本大震災、熊本地震、そして能登地震と、この20年で大地震に立て続けに襲われ、前の地震の復興がままならない中でも、みんなが、なんとか立ち上がろうとしています。
地震だけでなく、火山噴火や台風災害も頻繁に起こり、さらに洪水や大雪……日本は災害大国であるということを見せつけられるような20年でした。日本史を振り返ると、そうした大災害が頻繁に起こりことが当たり前で、災害による飢饉や政情不安などをなんとか乗り越えて生きながらえてきたのが日本という国の特徴だともいえます。
私は1961年の生まれで、子供のころは、まだ戦争の傷痕や記憶が残ってはいたものの、高度経済成長の波がそうしたものを押し流し、上向き景気がずっと続いた時代に成長しました。さらにバブル景気、そのバブルが弾けて経済の低迷へ向かっていくわけですが、戦争にも大きな災害にも遭わずに青春時代を終え、楽観主義が心を支配していたような半生を過ごしてきました。
ところが、日本の栄華は萎んで景気は長い低迷に入り、そして災害の時代に突入してみると、自分が過ごした半生が、歴史的に見れば稀有な時代であったことに気づかされました。今、政権の中枢を担っているのは、平和で好景気の日本で生まれ育ってきた同じような世代の人たちばかりです。彼らが突発事態に見舞われたときにどうしていいか分からず、初動で失敗して遺恨を残してきたことも、危機感の薄い同年代として理解できるところがあります。
しかし、漫然と生きていればいい時代は過ぎ去り、災害が日常である時代に突入した今、過去の同じような時代にあって、どうやって日本人は立ち上がり続けてきたのか、諦念や無常観に心が打ち負かされるのではなく、それを芸術や文化に昇華することができたのかということに目を向けることで、生きていく知恵と心構えを持てるのではないかと思うのです。
災害と聖地との関係は、過去に何度か取り上げましたので、興味を持たれたらバックナンバーを紐解いてみてください。今回はとくに災害が常態である日本だからこそ、どのような精神や文化が生み出されてきたのかに焦点を絞って掘り下げてみたいと思います。
●夢うつつのうつつ
町や村、集落の境界には、道祖神や庚申塔、地蔵などが残っていますが、これらは疫病が流行ったときに境界を越えて入ってこないように、そこに結界を張るという意図が込められていました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.279
2024年2月1日号
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◆今回の内容
○生態知 その2 菌類=キノコに学ぶ
・森の叡智「菌根菌ネットワーク」
・人はキノコに操られている
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生態知 その2 菌類=キノコに学ぶ
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前回は、南方熊楠を例に生態知の話を書きましたが、配信から数日後、NHK-BSで植物学者の牧野富太郎と南方熊楠の生き方について触れたドキュメンタリーが放映されていました。ご覧になられた方もいるかと思いますが、前回の聖地学講座の内容をビジュアルでわかりやすく説明するような内容で、思わず乗り出して見入ってしまいました。
そして、地球環境がどん詰まりの危機に瀕しつつある今、「自然」と「人間」といった二項対立的な考え方の矛盾にたくさんの人が気づくようになり、牧野や熊楠のように、人間も自然の構成要素の一つであり、様々な生物との相互依存関係で成り立っていることを自覚して、生活のあり方を変えていく必要があると考えるようになってきていることを実感しました。
熊楠は、神社=鎮守の森が、生態知をそのまま保存している場所であり、これを残さなければ、人間は自然との結びつきを失って、滅亡へ進んでしまうと憂い、神社合祀に強硬に反対したわけですが、明治に失われてしまった生態知を取り戻そうという動きが静かに広まっていることに、もしかしたらもう手遅れかもしれないと思いつつ、一縷の希望を感じさせます。
今年の冬は、関東では暖かい日が続いて、まだ1月のうちに梅の花が開き始めました。そして、あの「春の憂鬱」である花粉症が、早くもはじまりかけています。この花粉症も、生態知を無視してしまった結果の一つです。
かつては、日本の森林、とくに里山と呼ばれるような人間の生活圏に隣接したところでは、ナラなどの落葉広葉樹が主体で、生活に必要な薪や堆肥となる腐葉土の供給源でした。ところが、文明化とともに建築資材となる杉や檜などの針葉樹に置き換えられ、これが全国の山を覆い尽くすようになりました。
それでも「林業」がきちんと採算ベースにあったときは、森はこまめに間伐されたり枝打ちされて整備されて人工林としての平衡が維持されていましたが、戦後に安い外材が入っくくるようになると、そのまま打ち捨てられ、無秩序に痩せた木々が繁茂するようになって微妙な平衡も崩れてしまいました。
それらの木々は、本来、その土地の植生に合わないものであり、仲間同士の生存競争にさらされて、なんとか子孫をたくさん作って生き残ろうとして、大量の花粉を撒き散らします。杉にとっては、無秩序なカオスの中で必死で子孫を残そうとするサバイバルなのです。花粉症は、いわば人間の自分勝手によって生み出された文明病…資本主義病ともいえるものです。
個人的には、高校時代から花粉症に悩まされてきた身としては(当時は「花粉症」という言葉がなくて、どうして春先に必ず風邪をひくんだろうと疑問でした)、この「業病」の根を断つために、なんとか忘れられた生態知を思い出し、社会が変わってほしいと願うばかりです。
近年、人類学の分野では、“many kinds of being”=「たくさんの類(たぐい)たち」という言葉がよく使われます。「類たち」とは、人間も含めて、この地球上で生きる生物全般のことです。長い地球の歴史の中で登場してきた類たちは、どれひとつ単一で存在しているものはなく、相互依存と互恵の関係にあってバランスしていることを表す言葉です。
個々は異なる種であっても、その種どうしが緊密に結ばれあうことで、全体としてまとまりのある生態系ができています。世界は、単なる「個」や「種」の寄せ集めなのではなく、それらが集まり、緊密な関係性を持つことで、全体が一つの意志を持った「大いなる存在」となっていると言ってもいいでしょう。これは、別の言い方をすれば、人間と非人間を含めた広い意味での「行為者」全体を扱うアクターネットワークともいえます。また、ガタリ=ドゥルーズの「アッセンブリッジ」という概念にも共通します。
今回は、そんなことを踏まえつつ、生態知についてもう少し掘り下げてみたいと思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.278
2024年1月18日号
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◆今回の内容
○「生態知」という考え方…南方熊楠を例に
・南方熊楠という人
・熊楠の生態知
・南方マンダラと現代の叡智
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「生態知」という考え方…南方熊楠を例に
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前回も能登のことに少し触れましたが、拙著の取材以外でも、昔から能登には縁があり、能登半島の寺社や聖地を何度も訪ねてきました。その多くが倒壊し、無惨な形になっているのを知り、あらためて今回の地震が人間の歴史を越える地質年代的なイベントだったんだなと感じさせられています。
なにしろ数百年はおろか千年以上もそこに存在して、幾多の地震にも耐えてきた建造物が、今回の地震ではいとも簡単に倒壊してしまったのですから。
犠牲者の方々のご冥福と現地の復興をただただ祈るばかりですが、あらためて地球の歴史の中で、人類として実際に体験した自然の力というものはたかが知れていることを肝に銘じ、だからこそ、謙虚に自然と調和する生き方を模索していかなければならないと思います。
日本列島は、別名「花綵列島(かさいれっとう)」とも呼ばれます。これは、ドイツの地理学者オスカー・ペシェルによる言葉で、花を結んで作った綱のようにきれいに弧状に連なる列島という意味です。亜寒帯から亜熱帯までの気候帯に並ぶ列島には四季があり、自然も多彩で奇跡のような美しさが地域ごとに展開していきます。単調な自然を見慣れたペシェルには、まさに「花綵」に見えたのでしょう。
一方、そうした美しく変化に富んだ列島が成り立ったのは、プレート境界という地殻活動の非常に激しい地域であったがゆえであり、美しさと引き換えに、激しい地震や火山噴火にしばしば見舞われてきました。
この日本列島で生きてきた先人たちは、縄文の昔から、多彩で多様で様々な恵みをもたらしてくれる自然に神性を感じ、これを祀ってきました。だからこそ「八百万の神」というように、無数の神々が生み出されたわけです。
一方、火山噴火や揺れる大地や台風が鎮まることを祈って、これらを荒ぶる神として祀ってきました。家を新築したり、土地開発の大きなプロジェクトに取り掛かる際に最初に行われる地鎮祭は、まさに大地を揺るがす荒ぶる神が目を覚まさないように願うものです。
さらに、列島であるがゆえに、様々な人たちが海から渡来し、そうした人たちそのものを神と崇めたり、渡来民の信仰する神を自分たちも取り入れたりもしてきました。
今回、もっとも大きな被害を受けた奥能登では、「アエノコト」という行事が伝えられてきました。旧暦11月15日と正月5日に行われるもので、そこでは主人が田の神を家の中に招じ入れて歓待します。
ところが、田の神の姿はありません。ただ主人が肩衣に威儀をただして、そこを田の神が動いていくようにゆっくりと誘導するフリをして、上座(神坐)へといざないます。そこには座布団に米俵を載せた依坐(よりまし)があって、そこに降臨した田の神にごちそうを振る舞うのです。
こうした、正体が見えず、どこからやってきたのかもわからない神を依代や依坐に迎える行事は、日本中にたくさんあります。そもそも日本神話に登場する神々の多くも、東アジアの各地に伝わる神話伝承から敷衍されたものがほとんどで渡来の神といえます。
この文章を書いている今は1月17日ですが、今日は阪神・淡路大震災が発生してから29年目で、現地では追悼の式典が行われています。この震災をきっかけに、日本は千年に一度の本格的な地震活動期に入ったとされ、東日本大震災、熊本地震、そして今回の能登半島地震と巨大地震災害が続き、またこれ以外にも大きな地震が各地で頻発しています。
私は阪神・淡路大震災のときに35歳でしたが、それまでの30年あまりとその後の30年あまりを回想すると、前の30年間には大災害の記憶はほとんどなく、後の30年は大災害ばかりが記憶に鮮明です。私個人の人生でも、そのようにはっきりと分かれて感じられるのですから、歴史的にも今は重大な時期に入っているということが痛感されます。
今後、大地震の時代以前の30年のように生きていてはいられないし、文字通り大地は安定して経済成長を謳歌していた時代を幻想のように追い求める社会のままでは、その社会自体も崩壊してしまうでしょう。そうならないためには、どうすればいいのか。そんなことを新年を迎えてしばらく考えていました。
そして、思ったのは、自分たちが暮らすこの花綵列島の特質をよく理解して暮らしていた先人たちにに習い、花綵列島独特の自然からの教え、つまりは「生態知」を取り戻した暮らしと社会を築き直していく必要があるということでした。
●南方熊楠という人
生態知、それも日本という国に根ざした生態知を強く意識し、それを守ろうとした人間といえば、南方熊楠があげられます。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.277
2024年1月4日号
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◆今回の内容
○宇宙意識の初夢
・果てしなき流れの果に
・意識とノウアスフィア
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宇宙意識の初夢
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昨年最後の前回の講座では、2024年が激動の年になるだろうと書きましたが、まさか元日早々に能登が大地震に襲われるとは夢にも思いませんでした。そして、翌二日には、能登へ救援に向かうはずだった海上保安庁機と日航機が衝突するという大惨事になり、海保機の乗員が亡くなるという痛ましい事故まで起きてしまいました。
能登で亡くなられた方々、海保機の乗員の方々のご冥福を祈るとともに、能登の地震が早く収束し、復旧へ向けて迅速に対応できるようにお祈りしております。
能登の地震に関しては、この三年あまり群発地震が続いて心配していました。この講座でも拙著『レイラインハンター』の第8章「能登・イルカ伝説と泰澄」でも、能登の聖地と断層の関係に触れました。能登半島の中央部を走る邑知潟(おうちがた)断層帯に沿って、泰澄が土地鎮めのために経文を記した巻物を鉢に詰めて埋納した場所が続きます。それは今でも「鉢ヶ崎」や「八ケ崎」などの地名として残っています。
邑知潟断層帯は能登半島の七尾から羽咋へ、北東から南西へ向かうもので、ちょうど能登半島のくびれの部分に広い谷を形成しています。今回の地震は、この断層帯の北側に沿うように震源が連なっています。海の中は断層の様子がはっきりわからないため、どのような構造になっているのかは不明ですが、その方向と伸び方を見ると、海にまで断層の帯が伸びていることが想像されます。
邑知(おうち)は「オロチ」が訛ったものともいわれ、巨大なオロチが地面の下でのたうつことで地震が起こると考えた古代人たちが、これを恐れて名づけたものではないか、そして、泰澄はそれを鎮めるために経を埋納したのではないかと私は推測しています。
邑知潟断層帯が盛んに地震活動していたのは、およそ3200年前と推定され、散発的な活動は9世紀頃まで続いたと考えられています。泰澄は7世紀後半から8世紀前半にこの地方で活躍した人ですから、そうした地震活動の一端に遭遇したのでしょう。
オロチ=蛇は水神であり龍とも同一視されます。辰年の始まる元旦に能登に眠るオロチが動いたと考えると、偶然とはいえなんとも不気味です。
(補記: 後に、気象庁は今回の能登半島地震の震源域を邑知潟断層帯の北部を走るF43断層の珠洲沖セグメントで発生したものと特定しました。しかし、この周辺は断層の巣ともいえるようなところで、今後、邑知潟断層帯を含む周辺の断層に影響を及ぼす可能性もあるとされます)
地球温暖化によって、世界は極端な異常気象に見舞われるようになってしまったわけですが、そうしたことと、311以降に日本列島が地震活動期に入ったことを考えれば、どこにいようとも安心はできません。常に大災害への備えと心構えをしておくべきでしょう。今回の地震もその警告と考え、重く受け取る必要があるように思います。
そうしたことも念頭におきながら、今回は人間と自然との関係から、宇宙、そして意識へと思いを巡らせてみたいと思います。
●果てしなき流れの果に
毎年、年末年始に再読したくなる一冊に、小松左京の『果てしなき流れの果に』があります。この作品は、『見知らぬ明日』『継ぐのは誰か』とともに、小松左京が人間の文明と進化、そして意識との関係を宇宙的視点でとらえた三部作の一つで、とくに人間の意識に焦点を当て、これを掘り下げています。意識が自我を超え、さらに超自我をも超えて突き抜けていく可能性について考察した、非常に哲学的な作品です。
ちょうど年の変わり目に、この作品を読み返したくなるのは、新たな年に向けて自分の意識を刷新して臨みたいといった潜在的な思いがバネになっているからだと思いますが、前回も触れたように、2023年はLLMの登場と生成AIの飛躍的に進歩を目の当たりにして、「意識とは何か」ということが真摯に問われるようになったこともあり、これまでよりもさらにこの作品を振り返ることが重要に思えました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.276
2023年12月21日号
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◆今回の内容
○2023年の聖地学を振り返って
・涅槃寂静にあるように
・自然思想と意識
・聖性を取り戻すことができるのか
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2023年の聖地学を振り返って
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2023年も残すところあとわずかとなりました。今年は、個人的には年明け早々にChatGPTを使いはじめ、さらに続々と登場する生成AIに感動して、それらをいろいろ試しているうちに、そのイノベーションの渦に飲み込まれて、あっという間に一年が過ぎた気がします。
この講座でも、AIと聖性、意識との関係について取り上げましたが、この地球上に人類に匹敵する…あるいは超える…超知性体(AGI = Artificial General Intelligence = 汎用人工知能)が生まれ、人類はそれとどう共存していくかを迫られるのもあとわずかという気がしています。
私にとって身近なところでは、GPTsというOpenAIが提供している自然言語で指定してアプリを作るシステムを使って、ずっと懸案だった聖地の位置関係を簡単に割り出す「聖地メーター」が、あっという間にできてしまったのが、とても印象的でした。
「聖地メーター」は、かれこれ10年くらい模索していて、プログラマーやデザイナーに依頼して仕様に準じたものを作るとなると数百万円から一千万円あまりのコストがかかり、完成までに数ヶ月は要するものでした。個人でその予算を捻出するのは不可能で、半ば諦めていたのです。それが、ベーシックな機能に限られるとはいえ、私個人が1時間もかからずに、無料で作れてしまったのですから。
そのような目まぐるしい技術の進歩に圧倒された一年でしたが、一方で、月二回のこの講座の配信も地道に続け、無事に今年最後の配信を迎えることができました。この講座の執筆にあたって様々な事象とじっくり向かい合うことは、普遍と向き合うことと同じで、進歩の目まぐるしさと対称して、うまくバランスが取れていたようにも思えます。
例年は、年末の回はルーティンに特定のテーマを掘り下げ、年明けの第一号で年頭所感を書いていましたが、年明け早々にAIにまつわる大変革が起こりそうなこともあって、年初にのんびりと一年の計を立てるような余裕もない予感なので、今回、この一年を振り返り、年明けは平常運転でいこうと思います。
●涅槃寂静にあるように
1月5日に配信した第253回「涅槃寂静にあるように……年頭所感を兼ねて」では、冒頭で、宗教学者の山折哲雄と鎌田東二がオウム事件を振り返るというテーマで行った対談から、山折の次の発言を取り上げました。
「癒しとは一体何か。 オウム真理教信者というのは、癒しを求めている人間ばかりだったような気がする。これは決定的に受動的な人間なんですね。
救いとか、悟りとか、自立とかということを主体的に考えない無数の人間たちをいわば最も深いところで支えているイデオロギーが<癒しイデオロギー>だと思います。癒しの受け手というのは、自ら主体的に悟るとか救われたいとかという意欲の欠如体ですね。それを日本の社会は持ち上げてきた。救いとか悟りが欠如した場合には、神も仏も存在しないわけです。
癒しという考え方をメディアが持ち上げて、雪崩を打つように多くの人々がその世界にのめり込んでいった。だから僕は癒しというのは最もいやしい言葉だということを言ったんだけれども。つまりそれは宗教的、政治的、経済的指導者というものをきちんと点検できない群衆を生み出した基本だと思います。 いまだに癒しブームというのは続いているわけですから、その辺がしっかりしないと第二、第三の麻原がいくらでも出てくるという気がする」。
近年のパワースポットブームや神社ブームを見ていると、この山折の発言にあるように、ひたすら他動的に「癒やし」を求めて、そんな場所に行く人ばかりで、まさにオウム前夜のような不気味な雰囲気を感じていました。そこで、年頭所感としてはネガティヴとも思えるこんな話を取り上げたのでした。
意味を自分で考えようとせず、短絡的に「癒やし」や「救い」そして「ご利益」を求めても、振り返ってみれば何も残りません。スマホで検索すればインスタントに答えが出てくることに慣らされ、また、SNSのエコーチェンバーによって、誰かの偏った「教え」が反響増幅して、それに踊らされている人たちを多く見かけるにつけ、山折が指摘したような「オウム前夜」の危機感を募らせていました。
長く続いたコロナ禍から開放されてあちこちに繰り出す人も多く、主要な観光地だけでなく、神社仏閣も人で溢れていました。そんな喧騒のパラノイアとでもいえるような様子にも強い違和感があって、少し冷静になって物事を見渡してみたほうがいいと感じて、「涅槃寂静にあるように」というタイトルにしたのでした。
喧騒は、人に対する訴えかけであり、ある意味暴力的です。静寂は内向的であり、人への訴えかけがないという意味で非暴力的ともいえます。誰もが僻遠の地にある修道院で棲息しているように沈黙の掟を守る必要もありませんが、喧騒一辺倒になっていないか顧みて、時には……いや、しばしば……一人で涅槃寂静にあるように過ごしてみたほうがいいのではないか。そんな思いではじまった一年でした。
●自然思想と意識
人間がイメージしたことが現実になるといった思想を「魔術的思考」と呼びます。そうした思想の源流をこの講座でもすでに何度か取り上げましたが、第254回「魔術的時代の先にあるもの」では、魔術的思考の原初が「自然魔術」だったことに光を当て、その自然観が、自然も人間同様<生き物>であり、様々な影響を受けてダイナミックに変転していくととらえていることに注目しました。
中世ヨーロッパでは、占星術や錬金術が古代の自然魔術と結びついたことで、人間は自然の中に「含まれた」存在だという明確な自覚が生まれ、それが、近代から現代へと受け継がれて、ついにはガイア思想を生み出すことになりました。
自然=地球=宇宙は一つの有機体であり人間もその構成要素であるというガイア思想は、ヒッピームーヴメントが生み出したものととらえられていますが、そのルーツは、古代の自然魔術にあって、何千年も育まれてきたものが、環境危機を契機としてとらえ直されたものです。そもそも「ガイア」という言葉は、古代ギリシアで「大地」や「地球」を意味していたものですから、その思想に回帰したものだったわけです。
そうした自然魔術=自然観からいちばん遠ざかってしまっているのが現代であるともいえます。そのために、自然破壊がどんどん進み、様々な悲惨や社会矛盾がより深刻さを増しています。人間は自然に生かされているという感覚は、太古から誰の心にもあるはずで、今、それを思い出さなければいけないと痛切に思ったのが、こんなテーマにした動機でした。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.275
2023年12月7日号
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◆今回の内容
○始原の聖性とアート
・始原の聖性と供犠の聖性
・アートと聖性
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始原の聖性とアート
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前回は、産業化社会の中で「聖性」が失われていく「脱聖化」の話から、高度情報化社会に至って、新しい「聖性」が生み出される可能性について、今、世界を革新しつつあるAIであるChatGPTとの「対話」から糸口を見つけてみようとしました。
その後、まさにChatGPTのリリース元であるOpenAIで大騒動が持ち上がったのは、みなさんもご存知のことと思います。CEOのサム・アルトマンが役員会によって突然解任された後、CEOを辞任し、マイクロソフトへの入社を発表するものの、OpenAIの社員のほとんどがアルトマン解任に抗議して役員会に辞表を提出、アルトマンはOpenAIに復帰したというものです。
飛ぶ鳥落とす勢いのIT企業のトップが突然解任されたといえば、スティーブ・ジョブスがアップルのCEOを解任された事件を思い出します。ジョブスのケースでは、その後アップルは凋落し、それを復活させるべくジョブスがCEOに返り咲くまでに12年間かかりました。ところが、今回の騒動では、事態は刻々と変化して、アルトマンはわずか5日でCEOに戻り、役員会が再編されました。
ChatGPTが登場してちょうど1年が経ちますが、この一年の間に、ジェネレーティブAIいわゆる「生成AI」は凄まじい進歩を遂げ、社会を根本的に改変しつつあります。アルトマンを巡るクーデタと復活劇の目まぐるしさは、そうしたAIの進歩のスピードと重なって見えます。
前回、私がOpenAIのシステムを使って、様々なChatbot(アプリ)を制作していることに触れましたが、この騒動でOpenAIのサービスが停止したり、会社そのものが傾くといったことになったら、せっかく作ったアプリも無駄になってしまうわけで、その中には以前から構想していていたレイラインハンティングを飛躍的に効率化できる「聖地メーター」の試作アプリもあったので、気が気でなく事態を見守りました。
OpenAIを巡るこの「事件」の背景や真相についていろいろ取り沙汰されていますが、かなり有力だと噂されているのは、人類滅亡に繋がりかねないAIのあまりにも早い進歩に危機感を持った役員たちが、アルトマンの性急なAI開発と製品リリースに歯止めをかけようとしたものではないかといった説です。
その真偽の程はわかりませんが、OpenAIが実現させようとしている人間の知能をはるかに超えるAGI(汎用AI)が生まれれば、社会が根本的に変容するのは間違いありません。そんな「兆し」は、前回の私とChatGPTのやり取りからも感じられたのではないでしょうか。
アルトマンは、2024年には、AIによって世界が大きく変わると断言していますが、彼が既定路線を踏襲すれば、本当に年明けには大きな変革が起こっているかもしれません。そこには、前回も触れたような「新たな聖性」の創出も含まれるかもしれません。
OpenAI事件のショックのせいで、少し前置きが長くなりましたが、今回は、前回お知らせしたように、聖性の本来の意味について触れてみたいと思います。
●始原の聖性と供犠の聖性●
前回、私たちが聖性を意識する場面として、日常の「ケ」の時間との対極にある祭りのような「ハレ」の時間を例としてあげました。祭りや儀式というのは、人間が聖なるものの存在を感じるために演出されるものであり、だからこそ、特定の時間や場所である必要があったわけです。
それが、産業社会の効率優先や合理性優先といった都合によって、時間や場所がずらされてしまうと、本来の意味を失い、聖性も薄れてしまう。それが、ミルチャ・エリアーデが唱えた「脱聖化」の大きな要因でした。
しかし、私たち人間には、根源的に聖性を感じ、それを求める欲求があります。それがなければ、ただの機械と同じになってしまいます。聖性の観念は、モラルの源泉でもあり、聖性が感じられなくなった人間は、「人ならざるもの」となってしまうと言ってもいいかもしれません。
だから、「脱聖化」といっても、聖性が完全に失われてしまうということは考えられない…人間性を完全に捨て去ってしまえば別ですが。逆に、聖性が薄れてゆくことに危機感を持って、それを取り戻そうとする意識も強くなってくるはずなのです。
エリアーデは、そうした私たちの心の根源にある聖性を「ある種の原初的啓示」と呼び、それが消滅することはないと言います。もっともテクノロジカルな文明においても、変わりえない何かがある。昼と夜、冬と夏があるのだから、樹木のない都市においても、天体のある空があり、常に星と月を見ることができる。昼と夜、冬と夏がある限り、人間は変わりえない。光闇、夜昼というリズムは常にあり、人はみなこの宇宙リズムの中で生きています。
いいかえれば、自然こそが聖性の根源であり、そこから「ある種の原初的啓示」が発しているということです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.274
2023年11月16日号
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◆今回の内容
○AIは聖なるものの夢を見るのか?
・聖性と脱聖化
・ChatGPTとの対話。「新たな聖性」について
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AIは聖なるものの夢を見るのか?
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聖性や霊性は、この講座のテーマとして何度か取り上げてきました。それは、宗教には必須なものであり、また私のように特定の宗教を信じない者にとっても、物事の背後やあるいは物事に付随するように漠然と感じられるものであり、それが畏敬の念を呼び起こします。
広い意味でとらえれば、フェティッシュやアフォーダンスも、それがある種の聖性(特定の人に限られるものも含めて)のようなものだからこそ、理屈によらずに感覚や感情を刺激されるのだともいえます。
一方、科学技術の進展や経済合理性を追求してきた現代にあっては、聖性や霊性が薄れ、あるいはそれがあったとしても感性が薄れ、ミルチャ・エリアーデが指摘したような「脱聖化」が進んできたように思えます。
聖性や霊性というのは、人間にとって本能的な寄辺ともいえるものです。人は聖性や霊性を感じるからこそ、物事を大切に思ったり、私利私欲を離れた…流行りの言葉でいえば「利他」的な行動をとることもできます。それがなくなってしまえば、世界も人生も無味乾燥なものになってしまいます。
しかし、現実には「脱聖化」が進み、愚かな戦争が繰り返され、経済格差もどんどん広がっています。「脱聖化」によって奪われてきた「聖性」は、現代社会にあっては、もう幻に過ぎないものになってしまったのでしょうか。それとも、それはまだどこかに息づいているのでしょうか。そして、新たな聖性が生まれる可能性はないのでしょうか。
今回は、そんなテーマを少し掘り下げてみたいと思います。じつは、当初、本稿では「聖性」の意味について、深く掘り下げようと思っていました。ところが、本文中にも出てくる「Pluto」というアニメ作品を観て、本来は次の回に触れようと思っていたテーマを先に取り上げることにしました。
「Pluto」は手塚治虫の原作を浦沢直樹がコンセプトを掘り下げてリメイクした作品で、AIを取り巻く今日的な問題である、AIは意識を持ちうるのかという点に深く切り込んでいます。今、まさに世界を席巻し始めているChatGPTのようなLLM(大規模言語モデル)や生成AIは、そのベクトルの先に、はっきりと「Pluto」の世界を見せています。それで、こちらのほうが喫緊のテーマだと思えたのです。
そこで、今回は今日的な「聖性」について触れ、後の回で、聖性の詳細について掘り下げたいと思います。
●聖性と脱聖化●
まず、「聖性」ということを簡単におさらいしてみます。「聖性」は宗教学ではもっとも重要ともいえるキーワードであり、エリアーデは「聖性」は現実のプロファン(世俗的な、非聖なる)な領域とは区別される超越的な実存の状態や質としてとらえました。そして、聖なるものは、しばしば場や物体において「ヒエロファニー」として現れると説きました。ヒエロファニーは神聖なものが普遍的なものや実存の基本的なレベルで顕現する瞬間も意味しています。
さらに、エリアーデは「聖性」と「プロファン(俗世)」を対比し、宗教的経験の意味は、聖なる時間(例えば祝祭日)や空間(聖域など)を通じてプロファンな日常生活から脱出することにあり、そこで語られる神話や示されるシンボル、また特別な儀式が世界を聖性に結びつけると考えました。
馴染みの言葉でいえば「ハレとケ」、「祭りと日常」ともいえます。そのハレとケ、祭りと日常を結びつけるものが聖性であり、ハレや祭りでの体験がヒエロファニーをもたらすことで、「ケ=日常」の繰り返しでマンネリ化した世界や個人の精神が刷新されるというわけです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.273
2023年11月2日号
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◆今回の内容
○能に隠されたメッセージ
・能の歴史と秦河勝
・能に秘められたもの
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能に隠されたメッセージ
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以前から、能の演目の多くが、亡霊やあの世、隠された神や虐げられたり悲運に見舞われた人物などをテーマにしていることを不思議に思っていました。
そもそも、能舞台の背景を飾る鏡板に描かれた老松は、能がはじまったとされる春日大社にあった「影向(ようごう)の松」で、神の依代とされる御神木ですから、神を下ろす神事であることははっきりしています。
さらに、 世阿弥が「夢幻能」を創始して、神や霊、モノの精などを主人公(シテ)として、旅人(ワキ)と出会うことで、それがこの世に立ち現れて伝説や身の上を語るという形式を完成させたわけですが、世阿弥は、何故「この世ならぬもの」に焦点を当て、それこに深い思いを込めたのか。
「清経」では、源平合戦の最中に戦うことの虚しさから自害した平清経が、無事の帰還を祈る妻の前に亡霊として現れて、自分の最期の瞬間の思いを語ります。「高砂」では、神である尉(じょう)と姥が、長寿と夫婦愛の象徴として登場し、<千秋楽は民を撫で>という謡で仕舞います。<高砂やこの浦舟に帆をあげて>という祝言の謡もこの演目が元ですね。
ほかに、天女と浜の漁師との出会いと別れを題材にした「羽衣」、虐げられた先住民の無念を表現した「土蜘蛛」、美女に化けた鬼たちの宴に巻き込まれた武将の顛末を描く「紅葉狩」、吊り鐘に隠れた愛しい男を蛇体となって焼き殺し、さらに再興の鐘にまで祟る女のすさまじい執念を描く「道成寺」。
玄賓僧都と麗しい女性の姿となって現れた三輪明神の交流を描いた「三輪」では、<思へば伊勢と三輪の神、思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、いまさら何と磐座や>と、三輪の神と伊勢の神が同じであることを匂わせるような場面があったりします。
深い憂愁を帯び、神秘的でもあり、そして暗示的でもある。能という伝統芸能には、何か秘められたメッセージがあるように思われるのです。当然、そうした能の舞台となるのは聖地であり、歴史的な因縁が染みついた土地でもあります。
そんなことから、今回は、一般的な芸術論とは違う観点から、能について考えてみたいと思います。
●能の歴史と秦河勝●
能は、奈良時代に、中国から伝来した古代舞楽の「散楽」と日本の「神楽」が融合して猿楽(申楽)となったのが始まりとされています。さらに、室町時代に大和猿楽で活躍した観阿弥と世阿弥親子が、今に伝わる能を完成させました。とくに世阿弥は、『風姿花伝』を著して、能の歴史と修行の作法、そして奥義を後に伝えるという大きな役割を果たしました。
その『風姿花伝』の中で、世阿弥は、申楽=能は神代にはじまると記しています。
「天照大神が天の岩戸に隠れた時。天下は常闇となってしまったので八百萬の神々が 天の香具山に集まった。そして大神を誘い出そうとして岩戸の前で、神楽を奏し細男(せいのう)の散楽(さんがく)を始めた」。
ここに記された細男とは滑稽な演技が特徴の古舞で、奈良春日社若宮の御祭で代々行われてきたものとされます。散楽は先にも触れたように奈良時代に唐から持ち込まれた技芸で、曲芸、軽業、奇術を含んだ俳優(わざおさ)のことです。
風姿花伝の内容を続けます。
「さらに、踊り手の中から、天鈿女が進み出て、榊の枝に幣をつけ、声をあげ、庭火を燃やし、踏み轟かす。神憑って歌い、舞い、奏でる。その声が岩戸の内へもかすかに届いたものか、大神は少し岩戸をお開けになった。国土はふたたび光に満ち溢れる。神々面も照らされ白く見えた。この時の神々の遊舞を申楽の起源とするとか」(『風姿花伝』水野聡訳 PHP研究所)。
これは、世阿弥の時代以前から伝わっていた話で、一般論といえるものですが、世阿弥は、さらに秦氏の族長であった秦河勝(はたのかわかつ)が創始したという話に続けます。秦河勝は聖徳太子の同志ともいえる人物で、崇仏廃仏の争乱の際に物部守屋の首級をとって武功をあげたともされています。ところが、その生い立ちから伝説めいた謎の多い人物です。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.272
2023年10月19日号
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◆今回の内容
○約束の地・憎しみの地
・アブラハムの宗教
・三宗教の確執
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約束の地・憎しみの地
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この10月7日にはじまったハマスによるイスラエルへの攻撃は、まさに寝耳に水のものでした。SNSを中心に、民間人が虐殺されたり拉致されて人質にされる様子、それに無数のミサイルが飛来して、それをイスラエルの防空システム「アイアンドーム」が片っ端から撃ち落としていく様子……リアルタイムで流されるそんな光景に凍りつきました。
戦場の生々しい光景がTVメディアで流された最初はベトナム戦争で、その後、湾岸戦争や911でも現場の様子をその空気感とともに伝える報道がなされました。しかし、ネット時代の今は、報道機関よりも、現場にいる個人の目に写った様子が流されるので、その迫真性は次元が違います。
昨年からはじまったロシアのウクライナ侵攻は、事前にその危険性を予感させる情報が様々にあったのに対して、今回のハマスの攻撃は、イスラエルの情報機関でさえそれを感知できなかったほど突然の出来事であり、だからこそ惨状がそのまま流され、それがあたかも今目の前で起こっていることのように感じさせました。
私は先月末から体調を崩し、家で休養しながら、ふとキリスト教史を復習してみようと思い立って、関連するテキストを読んでいました。同じ「アブラハムの宗教」であるユダヤ教、キリスト教、イスラム教という三大一神教の成り立ちと、それぞれの確執、さらに惨たらしい相互の殺し合いの背景にいったい何があるのかなどと考えていたところに、この事件がまるでシンクロするように起こったので、なおさら驚かされたのでした。
今の日本人の大多数、とくに若い世代の人たちにとっては、こうしたパレスチナにおける紛争というのは、あまり馴染みがないかもしれません。これは、遠い土地での出来事であり、また宗教対立とその背後にある国際関係などが複雑で、身近に感じられないのも仕方ありません。
しかし、私やさらに上の世代にとっては、パレスチナ問題は、かなり身近に感じられるのです。というのも、1970年代から80年代はじめにかけてのアラブゲリラのテロが頻発していた時代、日本赤軍(その前身も含めて)がPLO(パレスチナ解放機構)やPFLP(パレスチナ解放人民戦線)との連帯を掲げて対イスラエルテロを何度も起こしていた記憶が、今でも鮮明だからです。
駐日イスラエル大使が、今回のハマスの攻撃に関してのTBSの報道にクレームを入れました。それは、ジャーナリストの重信メイをコメンテーターとして呼んだことに対するもので、重信メイの母親である重信房子が日本赤軍の最高幹部でPFLPに参加し、テルアビブ空港乱射事件やハーグ事件などにも関与していたことと、レバノン生まれで父親がアラブ人であるメイ自身がパレスチナ寄りの見解を述べたからでした。パレスチナ問題と日本赤軍の関わりを知っていれば、イスラエル大使の心情もそれなりに理解できます。
パレスチナ問題というのは、領土問題であると同時に、「アブラハムの宗教」の三宗教が共通とする聖地に絡む問題でもあり、さらに歴史的な経緯が幾重にも重なっているので、とくにそうしたことに馴染みが薄い我々日本人には理解し辛い問題であることはたしかです。
しかし、難しいからと知らぬ顔はできません。日本にもやはり領土問題はありますし、日本という国が成り立ってきた過程の中にも、信仰や思想信条、聖地を巡る対立もあったわけですし、今、世界中でエスニシティやナショナリズムに関わる様々な問題が噴出している中で、日本がいつ紛争に巻き込まれるかもわからないのですから。
そうした危機感も込めて、完全に理解はできなくても、パレスチナ問題を少しでも紐解く鍵となればと、今回は「アブラハムの宗教」の三宗教間の対立の遠因について考えてみたいと思います。
●アブラハムの宗教●
まず、聖地の問題ですが、パレスチナの聖地でもっとも重要なのはエルサレムです。元々は殺風景な岩山に囲まれた砂漠の不毛の土地が、なぜ「アブラハムの宗教」にとって重要な聖地になったのか、その成り立ちとこの聖地を巡る攻防については、この講座の第128回『エルサレムに見る「聖地性」』で詳述しました。今回のハマスとイスラエルの戦争を機に、その全文をサイトで公開していますので、そちらを参照ください。https://obtweb.typepad.jp/obt/2023/10/israel_hamas.html
ここでは、まず「アブラハムの宗教」の由来から紐解いていきましょう。
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この7日に始まったハマスによる対イスラエル戦争と、それに対するイスラエルの報復は、すでに混迷を極めている世界にあって、大きな破局につながっていきそうな不気味な危機感と、どうしようもない憎しみの連鎖への絶望的な嘆息をもたらしています。
パレスチナの問題は、かつては、日本赤軍もからんだテルアビブ空港乱射事件などもあって、日本人にもそれなりに関心の深い問題でしたが、今は、世界のメディアがライブで流しているのに対して、日本のメディアもSNS界隈もすっかり無関心になっているようです。
かつて、「ガラパゴス化」などとハイテク分野で言われましたが、もっともガラパゴス化しているのは、世界情勢についての知識や関心ではないかと思います。
パレスチナ問題の背景にある歴史の複雑さ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という「兄弟宗教」が抱える近親憎悪的感覚が理解しにくいことも、関心が持ちにくい要因だとは思いますが、それらは、世界を理解する上で、とても重要な事柄です。さらにいえば、ほとんどの国際紛争が領土やエスニシティに関わることであることを考えれば、日本も他人事ですまされることではありません。
そうしたことのすべてをここで語ることは不可能ですが、ちょうど、聖地学講座で、以前、エルサレムという聖地の複雑さについてまとめたことがあったので、ここに全文を公開します。
エルサレムの成り立ちと、この聖地を巡る長い長い攻防の歴史は、パレスチナの問題を理解するための、一つの手がかりになると思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.128
2017年10月19日号
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◆今回の内容
◯エルサレムに見る「聖地性」
・4000年間の固執
・記憶の場
・天上のエルサレム
◯お知らせ
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エルサレムに見る「聖地性」
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私は、若い頃から砂漠に憧れ、カリフォルニアやアリゾナの砂漠でオフロードバイクを走らせたり、メキシコのバハカリフォルニアで行われるデザート(砂漠)レースに出場したり、タクラマカン砂漠を旅したりしてきました。
砂とまばらな灌木があるだけで、見渡す限り他に何もない砂漠という環境は、そこがあまりにも何もなさすぎるがゆえに、そこに様々な存在を妄想したりあるいは投影して、イマジネーションが果てしなく膨らんでいきます。そんな体験をすると、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という世界宗教が砂漠という環境から生み出され、いまだに砂漠の中に根源的な聖地を持っていることが、自然に納得できます。
エルサレムという聖地には、まだ残念ながら足を踏み入れたことがないのですが、砂漠の宗教が生み出され、今でも三つの宗教にとってあらゆる聖地の中心である「世界の臍」として、その信者を惹きつけていることに興味を掻き立てられてきました。
ルーツを同じくする三つの宗教が、2000年以上に渡って互いに血で血を洗う抗争を繰り広げ、しかし、猫の額のようなエルサレムの旧市街にひしめいて共存していることに驚異を覚えます。それは、エルサレムにしばらく滞在して、その空気に浸らなければわからないものでしょう。
最近、何故かそんなエルサレムが気になって調べたりしていたのですが、この数ヶ月のうちに、エルサレムやイスラエルと関係の深い人と何人も知り合うことになりました。ある人は、イスラエル大使館に長い間勤められていた人で、当然、エルサレムのことはよく知ってます。また、ある人はエルサレムと関係の深いユダヤ教エッセネ派の研究者で、とくに歴史に造詣の深い人でした。また、つい最近までエルサレムに滞在されていたという人もいます。
ある場所のことを意識するようになると、自然にその場所に呼び寄せられるようなことが起きますが、ついに私もエルサレムに呼ばれだしたのかなと思っています。そんなこともあり、今回は、エルサレムという聖地に焦点を当て、そこに見える典型的な「聖地性」を検証してみようと思います。
今回を第一部として、彼の地への訪問がかなったら、第二部のレポートをお届けしようと思います。
【4000年間の固執】
エルサレムの歴史がはっきりと史実として記録されたのは、紀元前1000年頃、ダヴィデ王のときです。ダヴィデは初代イスラエル王サウルの後を継ぎます。ダヴィデの息子はソロモンで、この親子の代に古代イスラエル王国は黄金時代を築きます。
ダヴィデは、砂漠の中の荒涼とした丘の上にあったエルサレムの砦で、大昔のものと思われる聖所を見つけました。このエルサレムの砦は、元々は「サレム」と呼ばれていましたが、サレムはカナン人の宵の明星の神のことでした。旧約聖書では、サレムの祭司王メルキゼデクがパンとブドウ酒をたずさえて預言者アブラハムに会い、「天地の主なる」エル・エリオン(至高の神)の名のもとにサレムを祝福したとされます。
ダヴィデはこの聖所こそがサレムであるとして、ここを世界の臍=中心とした都市を築いてイスラエルの都とします。そして、メルキゼデクが地上と天上を統合する象徴とした紋章を自分のものとしました。
ダヴィデが発見した聖所は、正確にはいつのものか不明ですが、シリアのアレッポ郊外に紀元前二千年紀に存在した古代都市国家「エブラ」から出土した粘土板に記された「サレム」がこの聖所ではないかと推測されています。だとすれば、エルサレムの歴史はダヴィデからさらに1000年昔の4000年前まで遡ることになります。
エルサレムの中心にあった聖所は、その中に巨大な岩を抱いていました。ダヴィデを継いでイスラエル王となったソロモン王は、この岩を覆う神殿を建てました。これは「第一神殿」と呼ばれます。その後、神殿が建つこの一帯は「神殿の丘」と呼ばれるようになりました。
第一神殿は紀元前586年のバビロン捕囚の際に破壊され、紀元前516年にアケメネス朝ペルシャがエルサレム征服後に再建し、紀元前1世紀頃、ヘロデ王の時代に荒れていたその神殿が再興されて「第二神殿」と呼ばれます。しかし、これは紀元後70年に古代ローマ帝国の軍隊によって破壊されます。その後、7世紀の終盤にイスラムがエルサレムの支配者となった時に、岩を覆う形で「カーバ=岩のドーム」が作られ、これが今に続いています。
このエルサレムの真ん中にある聖なる丘をユダヤ人は「神殿の丘」あるいは「モリヤ」と呼び、イスラム教徒は「ハラム・アッシャリーフ」と呼んでいます。
エルサレムに住み、この地を舞台にした様々な文学作品を残したアモス・エロンは、『エルサレム --記憶の戦場』の中で、次のように記しています。「4000年前にスコーパス山かオリーヴ山に立った人が西を向いて峡谷の向こうに見たのは、岩だらけの頂上に作られた小さな要塞の町だった。現在、モスクや尖塔(ミナレット)が立つ壮大な神殿の高台となっているところは、当時はただの小高い高台--丘の上の城塞(アクロポリス)でしかなかった。今でも巨大なドームの下に見られる大岩は、バールの神か別の異教の神を祀る祭壇として使われていた。これも聖地によくある奇妙な倹約精神の一例で、その後次々に生まれた敵対し合う宗教のどれもが、この同じ岩に重要な役割を与えた。ユダヤ人はこれを<礎の石>と呼ぶ。宇宙の創造が始まったのも、アダムが生まれたのもここだという」
4000年の昔、ここは素朴な巨石信仰の聖地だったのでしょう。それが紀元前1300年から1000年はカナン人の神であるサレム信仰の地となりました。そして、紀元前およそ1000年から168年はユダヤ人の唯一神ヤハウェを祀る聖地。紀元前166年から165年はオリンピアのゼウスの聖地。紀元前1世紀から紀元70年は再びヤハウェの聖地。紀元135年から333年はローマ帝国によってユダヤ教の痕跡が一掃された「カピトリーナ」という時代で、このときはローマ神話の天空の神であるユピテルが祀られる聖地とされました。そして、333年から638年の間は空白期間。638年から1099年はイスラムの聖地。1099年から1187年は十字軍によるエルサレム奪還期でキリスト教の聖地。1187年以降は再びイスラムの聖地となります。
大雑把に見ても、この4000年の聖地としての変遷はめまぐるしいものがありますが、さらに細かく見ると、エルサレムを巡る壊滅的な包囲戦は20回を数え、長期間荒廃するまま放置されたことが2回、壊滅した街が再建されること18回、支配宗教の交替は少なくとも11回を数えます。エルサレムを巡って数々の帝国、宗教、民族が果てしなくぶつかりあったため、とうとうエルサレムの北にある名高い戦場ハルマゲドン(現在のメギド)という地名は、「この世の終わり」の代名詞となってしまいました。
エロンは諧謔的に「聖地によくある奇妙な倹約精神」と記しましたが、一つの岩を聖なるモノとして、ここまで固執させるものはいったい何なのでしょう。聖地はたしかに不動のものであり、支配者や宗教が代わっても受け継がれていくものですが、エルサレムほど長い歴史の中で固執され続けてきた聖地は他に見当たりません。人がエルサレムという聖地にこれほどまで固執するのは、そしてそれが4000年も続いてきたのはどうしてなのでしょう。
【記憶の場】
エルサレムの中心にあるこの岩には、様々な神話=物語が染み込んでいます。まず、ユダヤ教の信仰では、神がアダムを作るために土を手にしたのも、アダムが埋葬されたのも、カインとアベルが神に捧げ物をしたのも、ノアが方舟から出て祭壇を作ったのも、アブラハムがイサクを生贄にしようとしたのもすべてここだとされています。
イスラム教では、エルサレムの「神殿の丘」からモハメッドが昇天したという伝承があります。そもそもキブラ(礼拝の方向)はメッカの方角ではなく、エルサレムを向いて祈っていたとされます。後にキブラはメッカの方に変わりましたが、エルサレムはメッカ、メディナについでイスラーム第三の聖都と位置づけられています。
モハメッド昇天の伝承は、いまではユダヤ教にとってのエジプト脱出、キリスト教にとってのマリアの信仰と同様に信仰のコアともいえるものです。しかし、マリア信仰にしても、キリストの死後数世紀の間は影も形もなく、十字軍の時代になって、唐突に広まっていったものです。
キリスト教は、岩のドームの西にある聖墳墓教会を聖地の中心としています。聖墳墓教会にはキリストが繋がれた牢獄があり、アダムの墓、キリストが鞭打ち刑に処された円柱、キリストの聖骸に香油を塗った岩、そして教会の名の由来であるキリストの聖墳墓があるとされます。さらに、最後の晩餐の部屋や復活したキリストがマグダラのマリアに会った場所までここにはあります。
冷静に考えれば、神話に記されたエピソードが、すべてこの狭いエリアに集中していることなどありえないのは明白です。でも、エルサレムでは、それが頑なに信じられ、個々のエピソードや聖遺物(とされるもの)にまつわる儀式が、狭く閉じた世界で果てしなく繰り返されていくことで、次第に現実味を帯びてきました。エルサレムで見られるほど極端ではないにしても、そうした思い込みと反復によって信仰が形作られていくのは他の聖地、他の信仰でも見られる現象です。
「エルサレムを訪れる者は、いわば内なる旅にきていることがしばしばある。目に見えるものはもちろんだが、フランス人のいう<記憶の場(リュ・ドゥ・メモワール)>、つまり人は自分が何者かを自覚する上で核となる規範を崇拝しているのだ。大勢の人が内なるイメージを求め、それを生きるためにやってくる。エルサレムは人が己の精神もしくは心の中で訪れる都市なのだ。ユダヤ人が<ダヴィデの墓>として崇拝し、キリスト教徒が<最後の晩餐の部屋>として崇める建物が中世後期のものだとしても、そんなことはどうでもいい。科学ではなく、信仰が決めた場所だからだ」と、エロンは看破します。
端から見ると不合理極まりないことが教理として多く人に受け入れられ、信じられるのは、信者が客観的な何ものかを求めているのではなく、自分の内側にある漠然としたイメージや思いが、宗教によって具体的なストーリーをともなって投影され、目に見えるもの、触れられるものとして現前するからです。エルサレムという聖地は、それをもっとも端的に表している場所なのです。
ヘブライ語は現代に使われている言語の中でもっとも古いものだといわれています。基本的には3000年前と変わりません。これがユダヤ民族の歴史において他に類を見ない連続性を生んでいます。エルサレムでは12歳の子供が博物館に行って、まったく違和感なく1世紀の碑文も読めるし、「死海文書」も読むことができます。このことがはるかに遠い時代も身近に感じさせ、さらに古来の儀式が繰り返されることによって、より「記憶」として強化されていくのです。
【天上のエルサレム】
エルサレムは、長い間ユダヤ民族にとっては亡国の都であり、実在しながらもそこに立ち入ることのできない幻の聖地でした。そこで、「天上のエルサレム」という概念が生み出されます。実在のエルサレムに代わる神秘的な天上のエルサレムを考えだしたのは、失われた都を思い懐かしむバビロン捕囚中の亡命ユダヤ人でした。「天上の」エルサレムは地上の写しで、神殿があり、預言者や祭司もいるとされました。エジプト、メソポタミア、ペルシヤ、ギリシアの都市国家とローマ帝国の果てまで、ユダヤ教徒たちは離散し、流れていきながら、天上のエルサレムのイメージをいだき続け、そこへの思いを募らせていきました。そして、ユダヤ教徒たちの天上のエルサレムのイメージは、彼らが移り住んだ場所の住人たちにも伝播していきます。
はじめユダヤ教の一派だったキリスト教も、当然この影響を受けます。キリスト教徒たちは、肉体は牢獄で、魂は死後に世界の天の王国、つまり「新しいエルサレム」で解放されるという概念を抱くようになったのです。
いっぽう、実在のエルサレムへの帰還もユダヤ教徒にとって悲願であり続けました。世界中に散らばり亡命を余儀なくされ、迫害され続けながらも、たとえ最期の審判の日になろうとエルサレムへ帰れるのだという希望を捨てなかった彼らは、それをバイタリティにして強烈な民族的紐帯を保ってきたのです。
イスラムがエルサレムの支配者になると、ついにユダヤ教徒にその門が開かれました(十字軍時代のキリスト教徒のエルサレムは、イエスを葬った裏切り者としてユダヤ教徒を憎悪し、受け入れませんでした)。すると、多くのユダヤ教徒が、エルサレムを目指しました。長く天上のエルサレムのイメージを温め続け、実在のエルサレムへの憧憬を募らせるうちに、エルサレムへの道の切符を手にした彼らは、エルサレムで死にエルサレムに葬られるのが、天国への一番の近道だと信じるようになります。
神殿の丘を中心にした旧市街のすぐ外縁には、夥しい数の墓があります。それはさながら死者の王国の様相を呈していると形容されます。「エルサレムでは、死者にも投票権がある」と形容した旅行家もいました。
これらの墓はユダヤ教徒だけでなく、ペルシア支配時代のものやイスラム教徒のもの、そして十字軍兵士のものもあります。しかし、それらは支配者が変わる度に壊されたり、墓碑銘を剥がされたりして、ほとんどが誰のものであるかわからなくなっています。
とくに十字軍兵士の墓の破壊は徹底的で、はっきりと十字軍兵士の墓と認められるものはたった一つしか現存していません。エルサレムと谷を挟んで対峙するオリーヴ山の上とその斜面には、かつて7万あまりのユダヤ教徒の墓がありましたが、そのうち5万あまりは、1947年から67年のヨルダン占領時代に破壊され、あるいは墓碑銘が削られてしまいました。
日本の高野山の奥の院には、武家や公家、商人などあらゆる階層と宗派も異なる墓がひしめいています。戦国武将で互いに血みどろの戦いを繰り広げた者どうしが墓石を並べているような例もあります。
天国=浄土の近くに葬られたいという欲求は同じながら、日本では、死すれば皆同じという一種の仏教観や、死ねば自然に戻るという日本古来の神道的な感覚によって、こうした墓所が静謐に包まれているのと好対照といえます。
その意味では、エルサレムは、死者がいまだに息づき、生きるものに多大な影響を与えているといえます。それが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教という同じアブラハムの宗教の近親憎悪的な世界を現出させているのでしょう。
そういったところも含めて、4000年の長きに渡って続く、エルサレムという稀有な聖地の魅力なのかもしれません。
こうして、思いを巡らせているうちに、私の心に生まれた「天上のエルサレム」のイメージもどんどん肥大してきたようです。私のエルサレム巡礼の日も近いのかもしれません。
**今回、本文の中でも引用しましたが、『エルサレム --記憶の戦場』(アモス・エロン著)は、エルサレムの歴史と今を概観するのに、最適の良書です。今回の記事に興味を持たれたら、ぜひご一読ください。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.271
2023年10月5日号
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◆今回の内容
○聖地と理想郷
・桃源郷というイメージをもたらした町
・都市文明の寿命と理想郷の形
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聖地と理想郷
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前回は、日本庭園が聖地を形作るのとまったく同じ考え方で設計されていて、その中心概念に「風水」の思想が活かされているという話を書きました。風水というと、古代中国において、王城とそれを中心とした都市を設計するために用いられたものという認識が一般的ですが、作庭でいう風水は、少しニュアンスが違います。
古代の王城都市では、風水は、周囲の自然との調和も意識していたものの、より重視されたのは、王家と都市の繁栄でした。今でも風水思想が根強い香港や台湾を見ると、一族の繁栄や富と健康を願う意識のほうが強く、しばしば利害がぶつかり合い、互いに優位に立とうとする「風水戦争」のようなものが起こったりします。1980年代半ばには、中国銀行と、その隣に建設された香港上海銀行との間で、龍脈の奪い合いから、互いに威嚇し合うような建築設計がなされたり、魔除けのオブジェが置かれたりしたのは有名な話です。
そのように、人間の利益のために風水を使えば、自然との調和という風水本来の目的から外れていくことになりかねません。日本庭園と向き合ったときに、落ち着いた気分にさせてくれるのは、設計の主眼があくまでも自然との調和や一体感、さらには自然表現そのものにあり、そのために風水の思想と技術が用いられているからでしょう。
この夏、あちこちの日本庭園を訪ねて思ったのは、そこに体現されているそんな自然との関係をより広げて、都市計画のようなものに活かせないかということでした。。
今回は、そんな観点から、風水思想が目指した「理想郷」と、その実例を探ってみたいと思います。
●桃源郷というイメージをもたらした町●
昔から、人は、みんなが何不自由なく、幸せに暮す「理想郷」というものをイメージしてきました。西洋ではそれを「ユートピア」と呼び、多様な形のユートピアが構想されてきました。あるものは、原罪以前のエデンの園のような世界に人々が暮らし、あるものは、先進の科学技術が飢えや病気や争いを消滅させて、人々が豊かに暮らす世界を描きました。
東洋では「理想郷」といえば、中国の魏晋南北朝時代の作家・陶淵明(365-427)が『桃花源記』に記した「桃源郷」が有名です。漁師が桃林の山奥深くへ迷い込んでたどり着く理想郷で、そこは、秦の時代に、乱を避けて生き延びた者たちの子孫が世界から隔絶された土地で、平和で裕福な生活を楽しんでいる場所として描かれました。
西洋のユートピアは、産業社会の発達以降に考え出されたものが多く、またキリスト教的な世界観に基づいているため、自然は人間に従属するものというイメージが強く、日本庭園の延長にある理想郷とは相容れません。しかし、桃源郷のイメージは、それにかなり近いように思えます。
『桃花源記』の記述をより詳しくみてみましょう。
「時は、晋の太元年間(372 - 396) 。武陵( 現在の湖南省張家界市付近)に、一人の漁師の男がいた。
ある日、谷川に沿って船を漕いで行くうちに、夢現の気分に陥り、気がついてみると、両岸一面に桃の花が咲き乱れる谷にいた。桃の花の芳しさが充満するこの谷は、この世とは思えなかった。
漁師はまだ続く川をさらにさかのぼり、ついに源流にたどり着き、岸に上がった。そしてまだまだ続く桃林を進んでいくと、険しい岩山に突き当たった。その山裾には人ひとりが通れるほどの小さな口があり、漁師はその中へ入った。それは山を貫くトンネルで、それを抜けると、広大な土地に飛び出した。
見渡せば、美しい池がいくつかあり、その周りには良田が広がっている。さらに、桑畑と竹林があり、道は縦横に交わって、点在する農家はどれも立派だった。ときおり、鶏と犬の声が響き、道を行く農民は漁師が観たことのない小綺麗な服を着て、老若男女みな楽しそうだった。
一人の村人が漁師を見かけて、「どこから来たのか」と声を掛けてきた。
漁師が川を遡ってきたことを話すと、村人は自分の家に案内し、酒席を設け、鶏を殺してご馳走してくれた。そして、彼らの祖先は500年前に秦の戦乱を避けてここまで逃れてきて、以来、ここに住み着いて、外の世界とは接触を持たなかったのだという。
村人は、漁師から外の世界の様子を聞いて驚き、他の村人も話が聞きたいだろうからと、漁師を紹介して、他の農家にも招かれて数日を過ごすことになった。
歓待され、土産を持たされて無事、故郷に帰った漁師だったが、あの桃源郷が懐かしくなって再び訪ねようとしたが、二度とたどり着くことはできなかった」。
中国では、桃は人々を幻想の世界へ誘う花木や邪気を祓う仙木仙花とされ、これを食べれば不老長生をもたらすと考えられていました。『西遊記』では、「蟠桃(ばんとう)」と呼ばれる扁平な形の桃を孫悟空が食べ尽くす話が出てきます。そこでは、蟠桃を食べると霞に乗って天翔り、不老不死になれるとされています。そうした桃に埋め尽くされた谷の先にある世界は、この世ならぬ、仙人のような人たちの住む理想郷と考えられたのです。
この『桃花源記』は、じつは 陶淵明の完全な創作ではなく、具体的なモデルとなった町があります。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.270
2023年9月21日号
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◆今回の内容
○聖地としての日本庭園
・作庭記における自然観
・作庭と風水
・この夏、印象に残った日本庭園
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聖地としての日本庭園
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この夏も、また昭文社のツーリングマップルの取材で、担当の中部北陸を巡り歩いています。それにしても、年々過酷さを増す暑さに、オートバイはもはや夏の乗り物ではないなと実感してしまいます。なにしろ、外気温が37℃とか38℃などという気温では、路面からの輻射熱もあって、体感温度は軽く40℃を超えてしまいます。そうなると、ヘルメットとライディングウェアという重装備でサウナに入っているようなもので、命の危険をリアルに感じます。
そんなわけで、炎天下ではあまり走り回らず、独自に今年のテーマを決め、陽を避けてゆっくりとすごす時間をとるようにしました。そのテーマというのは、「日本庭園」を巡ることです。日本庭園といっても、日本三名園に代表されるような大きな公園ではなく、地方にひっそりある寺の庭園や、かつての豪商や豪農などが趣味で作った庭園です。
この日本庭園というテーマは、じつは、だいぶ前から考えていたもので、いずれ全国の庭園を巡って、その構造をレイラインハンティング的な手法で解析してみようと思っていたものでした。今年の取材では、編集のほうから特段のオーダーがなかったので、ここぞとばかりに、懸案の日本庭園巡りをスタートすることにしたわけです。
なぜ、日本庭園かといえば、日本庭園の設計思想とそのノウハウが、聖地と同じように、方位を重視し、また取り巻く地形や自然を意識していて、庭園自体が聖地をそこに具現化しようとしているものともいえるからです。日本庭園を観ることは、具体的かつ明確に設計された聖地を観ることと一緒なのです。
●作庭記における自然観●
日本庭園を造ることを「作庭」といいますが、その作庭の思想と技法には法則があります。それを記した作庭のバイブルとも言えるのが『作庭記』です。『作庭記』は、平安時代に成立したもので作者不詳。元は『前栽秘抄』と呼ばれていましたが、江戸時代中期に塙保己一の編纂した『群書類従』の中で『作庭記』と記され、それが一般的な呼び名となりました。まとまった作庭書としては世界最古のものと言われ、現代の作庭家たちもこれに準じた庭作りをしています。。
その『作庭記』の冒頭は、「石をたてん事、まづ大旨をこゝろふべき也」という見出しに続いて、「一、地形により、池のすがたにしたがひて、よりくる所々に、風情をめぐらして、生得の山水をおもはへて、その所々はさこそありしかと、おもひよせくたつべきなり」とあります。
「石をたてん事」つまり「石を立てること」が、すなわち庭を造ることであり、その要諦の第一が、「周囲の地形や池の様子を勘案しながら、柔軟に独自の趣向を凝らし、理想の自然のあり方とその場所の条件に合わせた様子を思い浮かべながら、<石を立てる…作庭する>のである」という意味です。
庭は、ただ自由気ままに造るのではなく、周囲の自然や植生を考え、それに理想とする庭の形とを重ね合わせて、その土地に合った形の庭を創造しなければならないというわけです。人工と自然との融合であり共生であるのは当然として、人間が自然と向き合ったときにいだく畏怖の感覚や自然との一体感といったものを、庭はより際立たせる機能を含んでいるということでもあります。
この夏、10ヶ所あまりの庭を訪ねましたが、そこには、熱心な学芸員や地元の有志の方がいて、庭の歴史や庭に込められた意図などを解説してくれました。そうした話ももちろん興味深いのですが、方位にまつわる思想や風水に詳しい人はおらず、そこは逆に、私が庭の方位を測って、その構造と意図を解析して、逆に解説するような形になりました。
巡ったすべての庭が、ただその場所だけを考えているのではなく、周囲の自然をしっかり意識しています。さらに、巨岩を中心に周囲に配された石が、太古のストーンサークルと同じように、東西南北の四方位と二至二分、立春・立冬の方位を指し示すように配置され、さらには中心の立石と周囲に配された石とを結んだラインの先には、庭から見える周囲の山の峰や鞍部と重なるようなケースもありました。
古代のストーンサークルや現代まで続く聖地のほとんどは、周囲の地形と構造を対応させ、太陽や月、その他の天体との動きとも対応させるのがセオリーですから、こうした庭もまさに聖地といえるわけです。しかも、多くの聖地が、そこを支配した権力者の意図や、社会的・経済的事情によって、本来の形から改変されていることを考えれば、日本庭園はよりピュアな聖地ともいえます。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.269
2023年9月7日号
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◆今回の内容
○神武の尻尾をつかむ
・応神の尻尾
・神武は応神をモデルに創られた
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神武の尻尾をつかむ
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前回は、天叢雲剣がなぜ熱田神宮に祀られているのかという観点から、海人族である尾張氏が出雲征服の主力であり、またスサノオの正体であったことを解き明かしていきました。
今回も海人族にまつわる話で、じつは前回に取り込むつもりでした。しかし、下書きをしてみると、大幅にボリュームオーバーで、話も複雑になってしまうため、独立させて一回分にすることにしました。
結果的に、テーマが明確でわかりやすくなり、前回との関連性もつかみやすくなったと思います。
というわけで、今回は前回の続きとして、日本神話に秘められた実在と創作の関連性について、もう一つのエピソードを掘り下げたものとして読んでいただければ幸いです。
●応神の尻尾●
この講座の第124回『海人族の足跡と聖地』では、海人族が日本の古代史に与えた影響をテーマにとりあげました。その中で、応神天皇が海人族の血を引くことを暗示する尻尾の伝説に触れました。
京都東山にあった観勝寺の僧だった行誉が 文安三年(1446年)に著した『あい嚢鈔(あいのうしょう)』という事典があります。これは故事の起源や語源・語義を整理したものです。その中に「尾籠事」という記事があります。
「或る説に応神天皇、海神の御末なる故に、龍尾御座して、是れを隠さん為に装束に裾と云ふものを作り始めて、是れを引き彼の尾を隠さしめ給ひける也。然るを出御の時、内侍未だ裾の内に有るを知らず、障子に立て籠め奉りにけり。其の時、尾籠也と仰せけるより始まれる詞也となん」
「応神天皇は海神の末裔であったので、龍の尾があった。これを隠すため、装束に裾というものを作り、この中に尾を収め隠した。ある日、天皇がお出でかけになるときに、裾がまだ部屋の中にあることに気づかないまま、女官が障子を閉めてしまった。天皇は女官に向かって、尾が籠っていると叱った。これが尾籠の語源である」。
『あい嚢鈔』には、さらに、皇祖神のウガヤフキアエズ(鵜草葺不合)は海神の子だから、代々竜尾があったとも記されています。
天孫降臨で地上に降り立ったニニギの子がヒコホホデミ(彦火火出見・山幸彦)で、ヒコホホデミは、海神であるトヨタマヒコ(豊玉彦)の娘であるトヨタマビメ(豊玉姫)と結ばれます。この二人の間にできた子がウガヤフキアエズです。
ウガヤフキアエズは、自分の母であるトヨタマビメの妹、つまり叔母にあたるタマヨリビメ(玉依姫)と結ばれて、二人の間にできた子が神武になるわけです。ということは神武も海神の血を引いているので、尻尾があったということになります。
そもそも記紀神話では、イザナギが海水でミソギをしたとき綿津見神と底筒男命・中筒男命・表筒男命(住吉三神)とアマテラス、ツキヨミ、スサノヲが生まれたとされていますから、神話の発端から日本の主要な神々が海と関係が深いことが示されているわけです。
アマテラス、ツキヨミ、スサノヲの三神は架空なのはあたりまえとして、神武とそれに続く第二代の綏靖から第九代開化までの天皇も、いわゆる『欠史八代』の架空の存在で、第十代の崇神からが実在の天皇とみられていますから、実質的な初代天皇の崇神から第十五代の応神までの間は「尻尾がある」、つまり海人族の血を引くもしくは海人族とのつながりが深い天皇であることを示しているといえます。
『日本書紀』の応神天皇の項には阿曇(安曇)氏が「海人の宗に任じられた」とあります。これは、阿曇連の祖とされる阿曇大浜が、応神天皇によって、天皇の命に従わない各地の海人(海部)族を平定し、その管掌者になることを命じられたことを記したものです。このことから、海人族の中でも天皇家と阿曇氏が近い関係にあったことがうかがえます。
阿曇氏は、後の律令制の時代にも、宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官を務めています。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)は海産物が主で、海人系氏族の役割とされたことに由来しているとされます。
7世紀の持統の時代に伊勢神宮が整備されると、内宮に祀られるアマテラスの食事を賄う御食津神(みけつかみ)として、丹後の国から豊受大御神(とようけのおおみかみ)を勧請して外宮が設けられました。この丹後の国も海人族の拠点の一つで、丹後一宮の籠神社の宮司は代々海部氏が務めてきました。また尾張の熱田神宮、大阪の住吉大社の宮司家も海部氏と連なる海人族の系譜です。
熱田神宮といえば、前回のテーマで掘り下げたように、スサノオの神剣である草薙剣をここに奉斎する尾張氏が天皇家と非常に近い関係にあります。住吉大社に関しては後に詳しく触れますが、この神社は応神と非常に深い関係があります。こうしたことからも、天皇家を中心とした海人族の緊密なネットワークがあったことがわかります。
記紀神話のエピソードには、不可解なものが色々ありますが、天皇家と海人族のつながりという視点に立つと、明白になってくることがいくつもあります。前回は天叢雲剣(草薙剣)がなぜ熱田神宮に祀られているのかを、これを奉斎する尾張氏が天皇家と関わりの深い海人族であるという点から解明したわけですが、同様に「元伊勢」の謎も、この視点から解くことができます。
崇神の時代に疫病や飢饉、騒乱などの禍事が続き、人口の半ばが失われてしまいました。そこで、託宣を得ると、アマテラスとオオモノヌシを宮廷の内に祀っていることが、祟りの元となっていると出ました。そこで、この二神を宮廷外に放逐することになるわけですが、オオモノヌシは三輪山に落ち着いたのに対して、アマテラスは落ち着き場所が決まらず、各地を放浪することになります。
はじめは崇神の皇女であるトヨスキイリヒメ、さらに次の天皇垂仁の皇女であるヤマトヒメに受け継がれます。ヤマトヒメが御杖代となって、奉斎場所を探し、ポイントを転々としてゆきます。そのポイントが、いわゆる「元伊勢」です。元伊勢と伝えられる場所は二十数カ所にもおよびますが、その中には、先にあげた籠神社や熱田神宮、住吉大社も含まれています。
元伊勢が分布する地域は、摂津、丹後、丹波、尾張、美濃、伊勢と非常に広範で、なんの脈絡もなく見えます、それは、ヤマトヒメがアマテラスを祀るにふさわしい場所をなかなか見つけられず、場当たり的に迷走していたかのようです。アマテラスを祀る上で、何か特別な自然環境や土地にまつわる歴史的な背景が揃う必要があって、そのすべてが揃う場所がなかなか見つからなかったのだろうかと思っていました。トヨスキイリヒメの代から数えるとじつに50年あまりにも渡って放浪しているのですから、よほど奉斎場所の条件が厳しかったのだろうと。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.268
2023年8月17日号
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◆今回の内容
○なぜ三種の神器の一つ天叢雲剣は熱田神宮に祀られているのか
・尾張氏とは
・本当の出雲国造と熊野
・スサノオの本質
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なぜ三種の神器の一つ天叢雲剣は熱田神宮に祀られているのか
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天皇のレガリアである三種の神器は、日本神話において、天孫降臨の際にアマテラスがニニギに授けた三種類の宝物とされ、八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八尺瓊勾玉の三つを指します。本来は三つとも宮中にあったものですが、今では、それぞれが別の場所にあります。
『古語拾遺』によると、崇神天皇の時、鏡と剣は宮中から出され、外で祭られることになったため、それぞれの形代が作られたとされます。この記載から、別々の場所に移されたのは、三種の神器が定められてからほどなくしてであったことがわかります。
崇神が疫病や飢饉が蔓延する中で、それがアマテラスとオオモノヌシを宮中に祀っていることが原因であるという神託を得て、この二柱の神を宮中から放逐します。それが、オオモノヌシが三輪山に祀られ、アマテラスがトヨスキイリヒメとヤマトヒメを御杖代として放浪し、ようやく伊勢に落ち着くことになった原因ですが、その際に、ただ目には見えない神だけでなく、アマテラスの象徴である神鏡とオオモノヌシ=スサノオの象徴である神剣も、実際に宮中から運び出されて、外に祀られることになったのです。
八尺瓊勾玉は草薙剣の形代とともに皇居吹上御所の「剣璽の間」に、八咫鏡の形代は宮中三殿の賢所に安置されています。オリジナルのほうは八咫鏡は伊勢の神宮内宮に、草薙剣は熱田神宮に、それぞれ神体として奉斎されています。これらのレガリアが宮中や天皇家と直接の関係がある伊勢神宮に安置されているのは当然として、なぜ天叢雲剣が天皇家と直接関係のない熱田神宮に祀られているのでしょうか。
天叢雲剣は日本神話において、スサノオが出雲国でヤマタノオロチを退治した時に、大蛇の尾の中から見つかった神剣であるとされます。ヤマタノオロチ退治に至る経緯と、神剣の名称については『古事記』『日本書紀』で異伝があのますが、 スサノオがこの神剣を高天原のアマテラスに献上したことは共通しています。そして、天孫降臨に際し他の神器とともにニニギノミコトに託されたとされるのも記紀で共通しています。
天叢雲剣は、 崇神天皇の時代に形代が造られ宮中に安置されたのは前記のとおりですが、オリジナルは笠縫宮を経由して伊勢神宮に移されたと伝えられます。さらに景行天皇の時代、伊勢神宮の斎宮であったヤマトヒメが、東征に向かうヤマトタケルにこの剣を託しました。
ヤマトタケルは伊吹山でイノシシの姿をした山の神の毒気にあてられ亡くなりますが、その後、神剣は伊勢神宮には戻されず、ヤマトタケルの妻であり尾張氏の一族であったミヤズヒメが尾張国に持ち込み、ここで社を建てて、その神体として、代々尾張氏が祀り続けてきたとされます。この社が熱田神宮です。
なぜ神剣は伊勢神宮に戻されず、あらたに設けられた尾張国の社に祀られたのでしょうか。その謎を解く鍵は、古代豪族の尾張氏とスサノオとの隠された深い関係にあります。この講座の266回と267回では、牛頭天王とスサノオとの関係に焦点を当てましたが、今回は、さらにその続きともいえるスサノオにまつわる謎を掘り下げてみたいと思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.265
2023年7月6日号
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◆今回の内容
○神話と共同主観
・神話という共同主観
・人間至上主義という共同主観
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神話と共同主観
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6月30日は、全国各地の神社で夏越の祓が行われました。本来は、夏越の祓は夏至に、大祓は冬至に行われるもので、一部の神社では今でも古いしきたりどおりに夏至と冬至に行われています。また、夏至から6月末日まで、冬至から大晦日まで通して行われているところもあります。しかし、ほとんどが6月末日と大晦日の儀式となっています。
これは、明治以降にグレゴリウス暦のカレンダーが導入されて、それに合わされたものです。私も、どうも釈然とはしないものの、6月30日には、以前から気になっていたスサノオを祀る神社に参拝に行きました。
今、私が住んでいる茨城県鉾田市の隣、小美玉市にある素鵞(そが)神社は、旧盆に行われる祇園祭で有名です。本家京都の祇園祭が八坂神社の祭神であるスサノオに病魔退散を願うのと同じく、やはり祟り神としての性質を持つスサノオに祈りを捧げて、その祟りに触れないように願うものです。
夏越の祓でも大祓でも、参道に設えられた茅の輪を潜り、これを八の字を描くように巡ります。これは一種の呪(まじな)いで、祟り神から姿を消すという意味を持っています。また、これに合わせて、紙を切り出した人形(ひとがた)に自分の名を書いて、それを身代わりとすることで病魔や悪縁を避けるといったことも行われます。
茅の輪潜りは、蘇民将来の神話を元にした儀式で、『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定)の縁起に見られるのをはじめとして、全国各地に広がっています。
天界から地上へと降り立って旅をしていた武塔(むとう)神が、一夜の宿を裕福な巨旦将来に請いますが、巨旦はこれを無下に断ります。そこで、武塔神は近くに住む巨旦の兄の蘇民将来の小屋を訪ねます。貧しい生活をしていた蘇民は粗末なことを詫つつ、心よくもてなしました。翌日の出発の際、武塔神は蘇民にむかって、厄除けに茅の輪を軒に掲げるように言って去ります。
時をおいて再訪した武塔神は、祟り神であるスサノオの正体を現し、茅の輪を掲げた蘇民将来の家族以外は、巨旦将来一族を皆殺しにします。そして、蘇民には、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えて立ち去ります。この神話が語るように、茅の輪潜りというのは、そもそもスサノオを祀る神社に伝わる儀式です。
小美玉市の素鵞神社は小規模ながらも趣のある社殿を構え、落ち着いた佇まいを見せる社です。台地の際に立つ社殿に向かって一直線に伸びる参道はきれいに掃き清められ、その中ほどに、腰を屈めてようやく通れるほどのサイズの可愛らしい茅の輪が設けられていました。雨が降りかかり、湿った藁がしなって、少しいびつな形になっていたりするのも、それがまた素朴な手作り感を醸し出していて、まさに「村の鎮守」として愛されていることを微笑ましく感じさせます。
スサノオを祭神とする神社は全国的にも少ないので、最近の神社ブームに加えてポストコロナの厄除けにさぞかし参詣者も多いだろうと想像していたのですが、意外にも数人の姿があるだけで、閑散としていました。なんだか肩透かしを食ったようでしたが、ゆっくりと落ち着いた場の雰囲気に浸れる、いい時間が過ごせました。
その後、鹿島神宮はどうなのだろうと好奇心が湧いて、そちらも訪ねてみることにしました。素鵞神社からは、霞ヶ浦沿いに南下して40分ほどの距離です。こちらは、関東でも屈指の大社ですが、祭神は国津神であるスサノオとは対照的な天孫系のタケミカヅチであり、これは典型的な武神ですから、本来は茅の輪潜りは関係ありません。
立派な鳥居を潜り、間口三間で二階建て、朱塗りの堂々とした楼門を抜けると、そこには素鵞神社とは比べ物ならない立派な茅の輪が設えられていました。茅の輪の手前には厄除けの人型がテーブルに並べられ、神職が厄除けの作法を案内しています。さらに、茅の輪の端に掲げられたスピーカーからは、夏越の祓と茅の輪潜りの由来についての解説が流されています。
こちらは、参拝客も多く、案内されるまま次々に人形に名前を書いて、それに息を吹きかけ、浄財とともに安置箱に納め、しずしずと作法にしたがって茅の輪を潜っていきます。先にも書いたように、今では多くの神社で見られる六月三十日(みそか)の光景ですが、茅の輪とは本来、縁もゆかりもないこの社で盛大に行われている様子には、なんともいえない違和感があります。私は、人形には目もくれず、茅の輪も素通りして、奥宮のほうへ進んでいきました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.264
2023年6月15日号
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◆今回の内容
○縄文時代の終焉と風景健忘症
・縄文から弥生へ
・風景健忘症
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縄文時代の終焉と風景健忘症
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しばらく前から、縄文時代が大きなブームになっています。2018年7月に東京国立博物館で開催された特別展「縄文—1万年の美の鼓動」には、主催者の想定をはるかに超える35万人以上が来場しました。その後の同様の展示会にもたくさんの人が詰めかけて、その人気は相変わらず続いています。
地球環境の破壊が切実な問題となっている今、自然とうまく共生して1万年もの長きに渡って続いた縄文時代を賛美し、その環境に適合した生活スタイルや思想を学ぼうという気持ちは良くわかります。またそれはとても価値があることだと思います。しかし、縄文時代を極端に理想視し、縄文人を理想的な生態系の守護者として崇めても、現代が抱える地球環境の問題がすぐに解決するというものでもありません。
先日、とあるオンラインのミーティングで、熱烈な縄文ファンの方がいて、熱心に縄文時代の素晴らしさを説かれていたのですが、それは現代人が勝手に想像した理想の縄文像とでもいえそうなもので、もはや「縄文教」です。そもそも、縄文人は淡々と日々の生活を当たり前のように送っていただけでしょうから、今、ここに当の縄文人がいたとしたら、神聖視されても当惑したでしょう。
この講座では、縄文人の生活スタイルや彼らの世界観、そしてその信仰や心性について今まで何度か考察しましたが、今回は、理想郷にも思える縄文文明がどうして消滅したのか、縄文時代が終焉して農耕文化を主体とした弥生時代へと移行した経緯はどのようなものだったのか、文明論的な視点から考えてみたいと思います。
歴史はリニアに進み、通り過ぎた歴史を再現することはできないのが現実です。様々なファクターが重なって崩壊した文明を仮に再現できたとしても、また崩壊の憂き目に合うのは目に見えています。ですから、失われた文明や叡智を理想視するのではなく、ドライに、その崩壊の仕組みを考えることも必要だと思うのです。
文明が崩壊にいたる過程に関しては、参考文献にもあげたジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』に詳述されています。そこでは、古代から現代までのある期間に栄華を極めながらも、最終的に崩壊した文明の崩壊への要素が5つに絞られています。
1.環境被害: 過度な農業、過剰な伐採、土壌の浸食、水資源の枯渇など、人間の活動による環境の損傷。
2.気候変動: 自然の気候変動や人間による気候変動(地球温暖化など)。
3.近隣の敵対集団: 敵対的な隣人との関係が緊張を引き起こし、戦争や侵略につながる。
4.友好的な取引相手: 交易パートナーとの関係が断絶され、必要な資源へのアクセスが失われる。
5.環境問題への社会の対応: 社会の価値観、構造、政治的選択などが、上記の問題に対する適切な対応を阻害する。
この5つの要素は、相互に関連し影響し合うため、一つの要素だけが原因となることは少なく、通常は複数の要素が組み合わさって文明崩壊を引き起こします。また、それぞれの地域や民族の特性によって、それぞれの比重も変化します。
これら5つのファクターを詳細に検討するためには、本を一冊書く必要がありそうですので、今回はずっと絞り込んだ形になりますが、縄文時代だけでなく、まさに現代の問題を考える上でも、この5つのファクターを意識することは重要ですから、ぜひ覚えておいてください。
●縄文から弥生へ●
以前は、縄文時代のはじまりは、氷期が終わり温暖化する1万年前とされていました。気候変動に対応して、人々は土器や弓矢を発明し、旧石器時代から縄文時代へ移行したという観点です。ところがもっとも古い縄文土器を炭素年代法によって調べると、それは1万6千年前に使用されていたものであることがわかりました。そこで、縄文時代の始まりは1万6千年前というのが通説となりました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.263
2023年6月1日号
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◆今回の内容
○東大寺大仏建立に秘められたもの
・良弁と実忠
・優婆塞という存在
・大仏の金はどこからもたらされたのか
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東大寺大仏建立に秘められたもの
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毎年3月2日に若狭の小浜で行われるお水送り(送水神事)を、かつて15年にわたってガイドしたことをこの講座でも何度か触れました。若狭神宮寺境内にある「閼伽井」から汲まれた聖水が、遠敷川にある鵜の瀬という淵に注がれるのが「お水送り」で、ちょうど10日後、その聖水が奈良東大寺二月堂の下にある「若狭井」から湧き出し、これを汲んで若水として二月堂の本尊である十一面観音に捧げるのが「お水取り」です。
若狭の土地神であった遠敷明神が、二月堂の修二会に遅刻して、そのお詫びに閼伽の水を送ると約束したのがはじまりとされます。この伝説では、遠敷明神の使者である黒白の二羽の鵜(興成明神)が若狭と奈良を結ぶ通路を開いたともされています。
このお水送り-お水取りという二つの神事を繋ぐルートは南北に一直線で、そこに火まつりが並ぶことや、「二羽の鵜」つまり「二鵜(にう)」が水銀を意味する「丹生(にゅう)」を暗示するもので、若狭に産する水銀を奈良に送ることの象徴として、この儀式が行われるようになったと考えられます。
この神事の創始者は、東大寺の初代別当である良弁で、神事の詳細を整備したのは良弁の右腕として活躍した実忠だといわれています。
今回は、そんな私にとっても馴染み深いお水送り-お水取りの神事とその創始に関わる二人の僧侶を糸口として、東大寺とその大仏建立の背景を掘り下げてみたいと思います。
●良弁と実忠●
若狭では、良弁がお水送りの舞台である鵜の瀬の間近の出身であると伝えられています。
「現在の小浜市下根来区白石の旧家である原井太夫家の次男に生まれたものの、赤ん坊のときに鷲にさらわれて行方知れずとなった。その後、巡礼となった母親が探しまわり、ついに東大寺の僧正となった良弁と再会する。母親は親子の対面を果したのち、奈良にとどまり、余生を楽しく過した。
その母が、臨終のとき、どうしてもふるさと若狭の水が飲みたいと所望するので、良弁ははるか若狭の方向をむいて、末期の水が若狭井に届くようにと一心不乱に祈願したところ、遠敷川の清流がこんこんと湧き出てきた」。
この伝説を由来として、原井太夫家はお水送りの世話役を務めてきました。
いっぽう、「元亨釈書」では、良弁は百済氏の姓をもち、近江の志賀里もしくは相模の人とされています。そして、こちらにも良弁が幼いときに鳥に攫われたという逸話が記されています。
「良弁は、彼の母が観音に祈って得た子であったが、二歳の時に母が桑を摘んで、子供を樹蔭に置いていたら、たちまち大鷲が降下して児を捉えて去ってしまった。母は、鷲を追っていき、そのまま家に帰らなかった。その頃、奈良で義淵が春日神祠に詣でたところ、鷲が子供をつかんでいた。義淵は子供を家に連れてかえり、五歳にして学問を習わせたが、一を聞いて十を知るという具合であった。やがて成長すると義淵に法相宗を、さらに慈訓に従って華厳宗の奥義を学んだ」。
このように出自ははっきりしない部分がありますが、良弁が義淵と慈訓に師事したことはたしかで、後に聖武天皇に重用され、東大寺の大仏建立を勧めたともいわれます。鷲に子供が攫われるという話は、「日本霊異記」や「今昔物語」にも登場するもので、貴種流離譚と同様のよくある神秘性を帯びさせるための箔付けといえます。
京都府の南東部、奈良県境に位置する笠置(かさぎ)山に笠置寺があります。麓には木津川が流れ、奈良方面からの月ヶ瀬街道と、京都方面から伊賀へ向かう伊賀街道の交わる場所でもあり古代からの要衝でもありました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.262
2023年5月18日号
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◆今回の内容
○日本の先住民とその記憶
・先住民の記憶
・アラハバキ神
・南信州の祭りに残るアニミズム
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日本の先住民とその記憶
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先日、たまたまつけたNHKのBSで「奇跡の巨石文明!ストーンヘンジ七不思議」という番組が流れてきて、思わず食い入るように観てしまいました。これは、2021年の12月に放送されたものの再放送ですが、私はこれが初見でした。
ストーンヘンジは、イギリス南部ウィルトシャー州ソールズベリー平原にあります。1986年にはユネスコの世界遺産に登録され、今では多くの観光客が訪れる観光名所になっています。この遺跡は紀元前3000年から紀元前1500年頃にかけての新石器時代から青銅器時代に渡って、段階的に作られたと考えられていて、その規模は、世界各地にみられるストーンサークルの中でも群を抜いています。
はじめは、日本の能登半島にある縄文時代の真脇遺跡と同じような巨木を円形に配した、いわゆるウッドサークルでしたが、木材が腐食してなくなると、石材が用いられました。馬蹄形に配置された高さ7メートルほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100メートルの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されています。さらにこのサークルの外側、北東の方向にはヒールストーンと呼ばれる高さ6メートルの立石があって、夏至の日には、中心にある祭壇石から見て、ヒール・ストーンの天辺に太陽が上るように配置されています。
このストーンヘンジの建造の目的と方法は、長らく謎とされてきましたが、この番組では、最新の考古学の知見から、新石器時代にこの地方に住んでいた古代ブリトン人がはじめに建設し、ここで祭祀を行っていたことを明らかにしました。
彼らは、素朴な農耕生活をしていましたが、あるとき大きな気候変動が起こり、その影響による長期的な寒冷化で作物が育たなくなってしまいました。深刻な飢えに見舞われた古代ブリトン人たちは、祈りによって、長らく姿を見せなくなった太陽を蘇生させようと考えました。そして、その祈りの場としてこの巨石のサークルを作ったというのです。
ストーンヘンジの近くでは、建設にあたった古代ブリトン人の集落跡が発掘されています。同じ規格の小さな住居が並んでいたことから、当時は貧富や身分の格差がなかったと推定されています。
彼らが一致団結して、はじめのサークルを作り終えると、寒冷化もおさまり、また輝く太陽が大地に恵みをもたらすようになりました。その後、ストーンヘンジは太古の太陽信仰の中心地となりました。ヒールストーンの天辺に昇る夏至の太陽に恵みを感謝し、冬至には、ヒールストーンの側からサークルの中心に沈んでいく太陽を拝んで、その再生を願ったのでした。
紀元前2500年頃、大陸からイギリスにビーカー人と呼ばれる青銅器製の武器を持った民族が侵入し、先住の古代ブリトン人を駆逐してしまいました。ビーカー人の名の由来は、彼らがビーカー状の土器を作っていたからでした。彼らは、新たな陶器スタイルや埋葬習慣、さらに銅製の金属器と金製の装身具という文化を持ち込んで、それまでの古代ブリトン人に完全に置き換わりました。
そのビーカー人も、紀元前1千年紀に、鉄器を持ったケルト人(ブリトン人)の侵入を受けて姿を消します。古代ブリトン人からビーカー人、ケルト人という民族の変遷では遺伝子的なつながりはなく、完全に入れ替わってしまったのですが、ストーンヘンジを神聖視する文化は受け継がれました。それは、いずれの民族も、信仰の基盤を自然に置き、とくに太陽の運行に特別の思いを持っていたからでしょう。
その後、紀元前40年頃に、今度は古代ローマ帝国がイギリスに侵入してきます。その際には、民族としてのケルト人は残存しましたが、キリスト教の影響を強く受けるようになり、古代から受け継がれてきた自然信仰は、次第に影が薄くなってゆきました。
NHKの番組でゲストコメンテーターとして登場した荒俣宏氏は、こうした人種の置き換わりを日本の縄文時代から弥生時代への移り変わりになぞらえていました。たしかに、先住民である縄文人が大陸渡来の弥生人に置き換わっていく過程は似ているものの、イギリスでは先住民のDNAは残らず、まさに「駆逐」されたことが明白であるのに対して、日本では、縄文人のDNAが現代人にまで残り、東北などではそれが濃いという特徴があります。それは、縄文人は完全に駆逐されたわけではなく、弥生人と混血していったことを物語っています。
日本古来の土着宗教が自然信仰をベースにしていのは、縄文時代の信仰の名残ですし、また、この数回の講座で見てきたように、渡来人がもたらした信仰がそうした自然信仰と混交して、日本独自の形に変貌しているのは、やはり私たちの血に残る縄文的な心性の影響によるものだと思えます。
数年前に、インバウンド絡みの仕事で、ヨーロッパと中国の旅行会社のエージェントを伴って、東北の聖地を巡りました。そのとき、案内していく中で、日本の神社の信仰の中に、古来の自然信仰が色濃く残っていて、現在ある神社なども、古くは縄文時代の構造や形式を残していることを説明すると、「どうして民族や宗教が切り替わったのに受け継がれてきたのか」と一様に驚かれました。
キリスト教圏はもちろん、中華の文化や思想でも、王朝が交代すると、前王朝の宗教などは否定され、その痕跡が消されてしまうことが当たり前です。それなのに、日本では、縄文時代からの自然信仰が、形は変えても神社信仰の中の御神体山や磐座、巨木、その他、川や大地、あるいは風の神を祀るといった形で同じ場所に残っていることが、彼らにはとても不思議に思えたようです。
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